タグ:總持寺 ( 1 ) タグの人気記事

總持寺と横浜市歴史博物館

4月に入ってしまったが,319日のことを書きたい.

この日は横浜市歴史博物館の歴史講座に申し込みをしたので,博物館の見学と以前から興味のあった總持寺の見学に充てることした.

以下,感想である.


總持寺

f0305926_20293471.jpg
下写真は大祖殿である.
f0305926_20313598.jpg
正式名は諸嶽山總持寺,永平寺とならぶ曹洞宗の大本山である.

元亨元年(1321年),瑩山律師禅師によって開かれた.

元は能登軍櫛比荘にあったが,明治三十一年の大火を契機に現在の横浜市鶴見に移転した.


以前から,この總持寺には後醍醐天皇が祀られているという話を聞きかじっており,なぜ横浜のお寺に…?と疑問であった.

後醍醐天皇はじめ後村上天皇、後奈良天皇、後陽成天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各ご尊儀は御霊殿にご奉安されているそうである.

總持寺のHPによれば御霊殿は,

f0305926_20321762.jpg

昭和12年(1937)、後醍醐天皇の600年御遠忌を記念して建立されました。

後醍醐天皇は、太祖・瑩山禅師の高い徳風の評判をお聞きになり、信仰上の10か条にのぼる疑問を提示されたところ、禅師は見事にお答えになったことから、元亨2年(1322)、「曹洞出世の道場」の綸旨を下賜され、總持寺は官寺に昇格しました。

とのことで,後醍醐天皇が崩御する前からのつながりがあったということで,納得できた.


立派な大黒天も祀られており,後醍醐天皇との関わりを感じずにはいられない.


訪問時には佛殿にて「開祖瑩山紹瑾禅師七〇〇回,二祖峨山韶碩禅師六五〇回大遠忌記念 禅と心のかたちー總持寺の至宝―旗揚げ展」が開催されていたため,鑑賞させて頂いた.

f0305926_20311017.jpg

重要文化財 刺繍獅子吼文大法被

毎年十月十五日の御両尊御征忌会の最終日に大祖堂で行われる總持寺貫首による問答の際に使用されるとのこと.

獅子の吼える様子は釈迦が説法する様子をたとえているそうである.

実際に十月十五日に使用されている様子を見てみたいものである.


横浜市指定文化財 前田利家像

重要文化財    前田利家夫人像

幅のように作成されているものの,利家像は夫人像に比べ,筆致や造形感が一歩譲っているそうである.

また利家像には夫人像にある賛もない.

夫人像はテレビや本などで目にした記憶があるが,本物がこちらにあるとは知らなかった.


その他,貴重な名宝の一部を鑑賞することができた.

また,仏殿にお祀りされている釈迦牟尼如来,脇侍として迦葉尊者,阿難尊者に近くで手を合わせることができた.


横浜市歴史博物館

歴史講座・古代

ある数奇な歴史書―当館所蔵「本朝世紀」をめぐって

本朝世紀は六国史の次に歴史書であるが未完のまま終わってしまったということで,知名度もあまり高くないそうだ.

恥ずかしながら本朝世紀という名は初めて聞いたので,せっかくならば講座に参加させて頂こうと横浜までいくことにしたのである.

講師は横浜市歴史博物館 学芸員 柳沼千枝氏であった.

本朝世紀の編者は信西(藤原通憲)である.

信西は藤原・南家末流の学者の家柄の生まれであったが幼くして父を亡くしたために高階家の養子となったので家業を継ぐことができなかった.

鳥羽院へ接近するものの,官位は上がらず出家し,後,信西となる.

妻が乳母として仕えた後白河天皇が即位することとなり,起こった保元の乱に勝利をおさめ,信西政権を固めるにいたるも,後白河天皇が退位し,反信西派が形成され,平治の乱で命を落とした.

信西が急死したことにより,本朝世紀は未完の歴史書となった.

(宇多一代のみ完成,醍醐~近衛十七代分が未定稿として朝廷に存在していたが焼失)

太政官の公日記である外記日記(公務参考用の記録)としてのかたちが残っている.


南北朝時代,持明院統の皇室文庫が北朝三代崇光天皇に継承されるが,動乱の中で崇光天皇が南朝方に拉致された間に弟の後光厳天皇が即位する.

崇光天皇は都に復帰するが,皇位は戻らず皇子栄仁親王が伏見宮家を設立し,持明院統の正嫡として文庫を保持していくことになり,伏見宮蔵書(本朝世紀も含まれる)となった.


以上のような説明を受けたところでミニコーナー展示の「本朝世紀」横浜市歴史博物館本を見ることとなったが,字配り・書体,そして欠損部分に至るまで忠実に伏見宮本を再現されていた(複本作成者 伏見宮家従 浦野直輝)

新しいものをどんどん取り入れよう,諸外国礼賛の時代にこのように古いものを残すべきという意志を持った人がいたというのは本当に素晴らしいことだと感じた.


常設展

f0305926_20343219.jpg
f0305926_20354587.jpg
f0305926_20363154.jpg
横浜市の歴史について俯瞰して学べるように展示されていた.

f0305926_20350023.jpg
最近気になっているヒスイの流通についても(縄文時代に糸魚川からムラづたいの交流で手にいれていたとのこと)パネルの説明があって,興味深く見させていただいた.

横浜には弥生人が移住してきたというのも面白い.

どこからやってきたのかはまだわかっていないとのことである.

横浜というと幕末以降開けた土地だというイメージであったが,その前から人口は少なくとも人は住んでいたわけで,海沿いということもあり,昔の人々の交通などを解明するには重要かもしれない.

中世以降の展示も充実していた.


企画展 称名寺貝塚 土器とイルカの縄文人

称名寺貝塚は横浜市金沢区に位置する貝塚である.

特徴としては貝類の他に魚類(ボラ,マダイ,クロダイ,スズキ,マグロ類など),ニホンジカ,イノシシ,イヌ,タヌキ,そしてイルカ類(バンドウイルカ,マイルカ,オキゴンドウ)が出土していることである.

f0305926_20332750.jpg
イルカ猟は縄文時代後期初頭には行われており,縄文後期中頃を境に数が激減し,後期末から晩期中頃にはイノシシと特にシカが多くなる.

これは古平潟湾の変化(狭くなった)ことにより,イルカが入ってこられるような内海でなくなったことが影響しているとのことである.

イルカを仕留めるには銛漁法が中心であったようである.

また,イルカの頭が裏返された状態で並んで出土し,骨の表面に必要以上の無数の打撃痕が残っていたため,何らかの風習があったと考えられる.


もう一つの特徴としてはその名の由来ともなった称名寺式土器である.

こちらも多数展示されていた.

f0305926_20340119.jpg
f0305926_20325222.jpg

以上である.

なかなか充実した1日であった.

ただ,横浜市歴史博物館横の大塚・歳勝土遺跡公園にまで足を延ばす時間が足りなかったのが残念であった.

機会を見つけて,博物館の歴史講座への参加や遺跡公園の見学など行いたい.


[PR]
by Allegro-nontroppo | 2016-04-03 20:42 | 旅行記