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何故,吉野が「聖地」となったのか?

奈良学ナイトレッスン 平成26年度 第4夜「わたしたちの聖地、吉野」を受講した.

本年の奈良学ナイトレッスンの当ブログ記事はこちら→ 第1夜 第2夜 第3夜

講師は吉野歴史資料館館長の池田淳氏である.


聖地吉野の誕生

よき人のよしとよく見てよしと言ひし 芳野よく見よよき人よく見 「万葉集」巻第1・27


仙柘枝の歌三首

あられふり吉志美が嶽を険しみと草とりはなち妹が手を取る

右の一首は,或いは云わく,吉野の人味稲の柘枝仙媛に与へし歌なりといへり.但し,柘枝伝を見るに,この歌あることなし  「万葉集」巻第3・385


この夕柘のさ枝の流れ来ば梁は打たずて取らずかもあらむ    「万葉集」巻第3・386


古に梁打つ人の無かりせば此処にもあらまし柘の枝はも    「万葉集」巻第3・387

右の一首は,若宮年魚麻呂の作
よき人:雄略天皇説がある

あられふり:「肥前国風土記逸文」の杵島山条に「あられふる杵島が岳を峻しみと草採りかねて妹が手を取る」とあり,「あられふり吉志美…」と類似している.

歌垣の折の歌として広く流布していたと考えられている.


七言.吉野川に遊ぶ.一首  紀男人

萬丈の崇厳削成して秀で,千尋の素濤逆析して流る

鍾池越潭の跡を訪はまく欲り,留連す美稲が槎に逢ひし洲に


萬丈の崇厳:万丈もある高い厳

千尋:非常に深い谷

逆折:さかまき曲る

槎:浮き木.ここでは柘枝のこと.


上記の歌にもあるように吉野は天女が舞い降りるのにふさわしい場所と認識されていた.


突然の変化―吉野川の蛇行―

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上は吉野川周辺地図.
①は大名持神社の所在地.


「大和めくりの記」(貝原益軒)や「神々の乱心」(松本清張)に記されているように大和上市あたりを境に吉野川は上流では急激な曲りで蛇行し,山地に挟まれた渓谷を流れているが,下流では大河のようにまっすぐ流れ,河原も形成されている.


この変化の地点に鎮座しているのが「大名持神社」である.

大名持神社は「延喜式」に記載される式内であり,吉野郡十座 大五座のうちの一社で名神でもある.

「三代実録」貞観元年(859)正月27日条によれば,京畿内七道諸神進階及新叙(中略)大和国従一位大己貴神正一位とある.

大神神社(大和国一宮)の大物主が正一位を授けられるのは,大己貴神より僅かに遅れ貞観元年21日,大和国内で大己貴神以前に正一位の神階を授けられているのは春日社のみ.


【参考】吉野郡十座 第五座 小五座

吉野水分神社 大 月次新嘗

吉野山口神社 大 月次新嘗

大名持神社 名神 大 月次相嘗新嘗

丹生川上神社 名神 大 月次新嘗 ※上社と中社のどちらか判明していない.

金峰神社 名神 大 月次相嘗新嘗

高桙神社 鍬

川上鹿塩神社 鍬

伊波多神社

波宝神社 鍬

比売神社


余談:大名持神社から大汝宮へ

室町時代の「大頭入衆日記」では,「応永七年カノエタツ九月四日座衆百姓評定云,天満神主殿大汝神主殿両人座敷事…」と記載されている.

「造営方仕日記」寛正4912日条でも,「大汝宮番匠ケン永代」とある.


読み方が「おおなもち」→「おおなんじ」に変化している.

おおなんじの意味は当時の日葡辞書より「危険な」「厄介な事」.

やっかいな宮,危険な宮と言う意味にとれる.

大蛇行のある川は非常に危険である.

大名持神社は蛇行の変化点に鎮座していることから,危険が始まる場所ということになる.

事実,この地点の吉野川には「南無阿弥陀仏」という名号が刻まれている.

つまり,大己貴神は「曲がり角の神」ということになる.


また,大名持神社の社前に潮生淵があったということが「大和志」や「大和名所図会」に記載されている.

周辺でかなり強い炭酸温泉が湧いていることから,この潮渕でも同様であったことが想像できる.

この潮渕の水を使い,明日香村や橿原では神事の前に禊を行っていた.

また,酒田では潮渕の石を使い湯立て神事を行っていた.

何故聖地に見えるのか?

七言.吉野の作 一首 多治比廣成

高嶺嵯峨奇勢多く,長河渺漫廻流を作す.

鍾池超譚凡類を異にし,美稲が仙に逢ひしは洛州に同じ.


長河:吉野川

渺漫:限りなく広い様子

鍾池と超譚:鍾池は古代中国の呉にあった池.超譚は越にあった深い淵

洛州に同じ:魏の曹植が落水の辺で仙女に出会ったという故事

大意:吉野の山々は険しくそばだって変化に富み,吉野川は限りなくとうとうと流れ,あるいは曲がりくねって流れている.呉の鍾池や越の淵を思わせる風景はありふれた平凡なものではなく,美稲が美しい仙女に逢ったという故事は,魏の曹植(曹操の五男.唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者)が洛水のほとりで仙女とであったという話と同じではないか.


つまり,飛鳥京から来た人々にとって,全く違う景観であり,自分の住む世界と違うことから「神仙境」と認識された.


吉野の位置

今国樔土毛献る日に,歌訖りて即ち口を撃ち仰ぎ咲ふは,蓋し上古の遣則なり.(中略)其の土は,京より東南,山を隔てて吉野河の上の居り.峯嶮しく谷深くして、道路狹く巘し.故に京に遠からずと雖も,本より来朝ること希なり. 「日本書紀」応神天皇1910月条


上記にあるように,京より遠くないところに,京とは異なる景観があったことが「吉野=神仙境=聖地」とされた理由であったろうと思われる.


以上が今回の講演内容であった.

何故,吉野が聖地となったか?という部分については深く述べられた本はあまりないので,非常に興味深かった.

しかし,内容に満足したかというとそれは別問題である.

例えば,神仙境といだけで大海人皇子が天智天皇のもとから逃れて吉野にくるものだろうか?

また,持統天皇が何十回も行幸するだろうか?

理由の一つにはなるかもしれないが,核心がつけていないように思える.

今回の講演を元にもっと他の観点から吉野を考察する必要がありそうである.


by Allegro-nontroppo | 2014-08-05 19:16 | 講演会,シンポジウムなど
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