「吉野」の歴史 ー古事記・神武東征ー

伝えたい 世界遺産「吉野」の魅力 第1回を聴講に行った.

この講座は全10回のシリーズものである.

「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されてから10年ということで,「吉野大峰世界遺産登録10周年記念事業協議会」主催のもと行われていく.

今回は初回ということで,「入門!古事記・吉野・神武東征」というテーマであった.

講師は南都銀行 公務・地域活力創造部の鉄田憲男氏である.

奈良の銀行にはおもしろい部署があるものである.

鉄田氏はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」専務理事も務めていらっしゃるそうだ.

講座内容はまず,タイトルにもある「入門!」の部分から始まった.

「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成施設のうち,奈良県内では「吉野山」「吉野水分神社」「金峰神社」「金峰山寺」「吉水神社」「大峰山寺」「大峰奥駈道(玉置神社を含む)」「熊野参詣道小辺道」である.

大峰奥駈道…役行者が8世紀に開いたとされる.吉野から熊野まで山上ヶ岳,弥山,八経ヶ岳など2000m近い山々が連なる.

「吉野」は奈良県面積の56%を占める.(五條市を加えると64%)

吉野川流域の「口吉野」と熊野川流域の「奥吉野」に分かれるが,古くは「奥吉野」は吉野に含まれなかった.

歴史的には以下の通り.

・古事記 神武東征伝に登場.

 「吉野河の河尻」(五條市),「吉野の首等の祖」(川上村),「吉野の国巣の祖」(吉野町国栖)

・吉野町宮滝に吉野離宮(斉明・天武・持統・聖武)

・吉野の盟約(天武朝)

・源義経の郎党や静御前は吉野の山に潜入

・吉野には平家の落人伝説あり

・後醍醐天皇の皇子・護良親王が吉野山で倒幕の兵を挙げる.京で建武の新政を開くが,南北朝時代には吉野に移り,南朝成立.南朝の中心は吉野山.


後南朝について

「後南朝…「南北朝合一」のあと,南朝再建を図った子孫や遺臣による南朝復興運動

「禁闕の変…後花園天皇の暗殺を企て,御所に侵入.暗殺は未遂に終わったものの,三種の神器のうち,剣と勾玉を奪う.後に幕府軍により変の首謀者たちが討たれ,剣は奪い返されるが,勾玉は持ち去られたまま.

「長禄の変…赤松家の残党らが,臣従すると見せかけて襲い,南朝の末裔の自天王・忠義王兄弟を殺害,勾玉を奪回

南朝の宮方に仕えた郷士の血族「筋目の者」等は現在でも25日に「南朝様」をお祭りし,将軍の宮の御所跡である神の谷の金剛寺において朝拝の式を挙げている.

この儀式では筋目の者が16の菊の紋のついた裃姿で知事代理や郡長等より上座につく.

神武東征について

・八咫烏の後をいでますと吉野河の河尻に到った

・国つ神・井氷鹿(尾生ふる人)→吉野の首等が祖

・国つ神・石押分之子(尾生ふる人)→吉野の国栖が祖

※国栖奏は現在でも,大嘗祭(皇居)や諸節会で奏上

白檮原の宮について

・「畝火の白檮原の宮に坐して天の下治めたまひき」

・橿原市久米町説と御所市柏原説あり

・御所市柏原説…本居宣長,白洲正子,鳥越憲三郎など.


以上のような内容であった.

古事記,日本書紀周辺や役行者などについては,既に知っている内容も多かったが,南北朝あたりは知らないことも多く興味深かった.

後南朝の話などはなかなか聞けないものである.

ここで私見を二つほど記しておきたい.


一つ目は「吉野」という地名である.

この説明で「狩りに適した良い野」とあったが本当だろうか.

元明天皇の御代,和銅6年「風土記編纂」の命と併せて,好字を用いた二字で地名を表すように勅が出ている(諸国郡郷著好字令).

その際に替えられてしまった地名ではないだろうか.

吉野はその歴史を鑑みるに,敗残者を多く迎えた地と言ってもよいと思うが,本当に「良い地」であったならば,敗残者が落ち延びていける状況になかったと思うのだ.

一般の人々が住むのに適していなかったので,敗残者たちが落ち延びていくことのできた地と考える方が妥当ではないか.

また,古事記にも登場した吉野の国栖が祖は,漢字で見る分には当たり障りないが,耳で聞くのではあまりに印象が悪い名前である.

この「国栖」についても同様の勅で変更された漢字だと推測すれば,吉野一帯が良い地名ではなかったと考えられるだろう.

私が推測するに「吉野」はその昔,「葦野」または「悪し野」と書かれていたのではないだろうか.

また,「国栖」は「屑」ではなかっただろうか.
吉野という地方は歴史的敗残者の集まる地であり,それ故,歴史的勝者たちが敗残者を貶めるために屈辱的な名前を与えたのかもしれない。


私見の二つ目に進みたい.

白檮原の宮についてである.

橿原市久米町説と御所市柏原説があるとのことであるが,これはそう難しいことではないと思う.

神武天皇はその実在性が疑われている人物の一人である.

巷間では欠史八代といって第二代天皇・綏靖天皇から第九代天皇は開化天皇は実在せず,後世になって創作されたと考えられているが,初代・神武天皇だってあやしいものである.

私が思うに,神武天皇は崇神天皇以前の皇族たちをモデルにして作り上げられた人物であるのではないかと思うのだ.

そのモデルの中の人物が「神倭伊波礼琵古命」,「神日本磐余彦尊」,「若御毛沼命」,「狹野尊」,「彦火火出見」たちではなかろうか.

この説は何も私が初めて述べたものではない.

有名な説の一つだと思う.

もし,この説が正しいのならば,都や即位の地がいくつあってもおかしくない.

当時の天皇(大王)は絶対唯一であったわけではなく,他の豪族の中で一つとびぬけた程度の力であったろうから,そう簡単に1箇所に都を定めることができるほどの権力はまだ,なかったことは想像できる.

大和では新参者の皇族たちは戦を続けながら転々としていたであろうし,そもそも,飛鳥時代くらいまでは,天皇の代替わりのたびに宮殿の場所が変わっていたのだから,神武天皇のモデルとなった人物たちがそれぞれ別の場所を都としていたとしても不思議はない.

よって,橿原市久米町説と御所市柏原説,どちらも正しいといえるのではないかと思う.


何にせよ,今回の講座は非常に興味深いものであった.

この講座のシリーズの第2回は既に予約済みであるから,非常に楽しみである.



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by Allegro-nontroppo | 2014-06-24 19:06 | 講演会,シンポジウムなど
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