高松塚・キトラ古墳孝④ ー候補となる皇子たちー


前回までの記事を踏まえて,候補となる西暦688-707年に亡くなった皇子たちを挙げてみる.

天智天皇,弘文天皇及び天武天皇の皇子たちとなる.


天智天皇の皇子

川島皇子657-691年)

:天智天皇の第2皇子.母は忍海造色夫古娘(忍海造小竜の娘).

「吉野の盟約」に参加した一人.

685年,浄大参(四品にあたる)の位.

686年,大津皇子の謀反計画を朝廷に密告.(『懐風藻』より)

691年に薨去.越智野に葬られた.


天武天皇の皇子

草壁皇子662-689年)

:皇后・鸕野讃良皇女(持統天皇)の皇子.

妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿陪皇女(後の元明天皇).

元正天皇・吉備内親王・文武天皇の父.

672年,壬申の乱が勃発すると他の兄弟達と共に両親に同伴する.

679年,「吉野の盟約」で事実上の後継者となり,681年に立太子.

しかし,皇位に就くことなく薨去.

陵は奈良県高市郡高取町の眞弓丘陵に治定されている.


弓削皇子?
-699

:第9皇子(第6皇子とも).

母は天智天皇皇女の大江皇女で長皇子は同母兄.

生年は不詳だが,寺西貞弘らによって天武2年(673)誕生と推測されている.

この推定に従えば,27歳での薨去.

高市皇子薨去後の後継者選定会議で発言しようとして,葛野王に叱責された.(『懐風藻』)

高市皇子654-696年)

:第一皇子で母は胸形尼子娘(宗形徳善の娘).

正妃は天智天皇皇女・御名部皇女(元明天皇の同母姉).

子に長屋王,鈴鹿王,河内女王,山形女王.

672年の壬申の乱勃発時,近江大津京にあったが父の挙兵に合流.

美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ,乱に勝利した.

679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わる.

686年に持統天皇が即位すると,太政大臣になり,以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった.

『延喜式』諸陵によれば墓は大和国広瀬郡の「三立岡墓」.

万葉集の柿本人麻呂の挽歌では百済の原に葬られたとある.

忍壁皇子?-705

:天武天皇の皇子で母は宍戸臣大麻呂の娘.

同母の兄弟姉妹に磯城皇子,泊瀬部皇女,託基皇女.

官位は三品知太政官事.

明日香皇女を妃としたとされ,山前王・従三位尚膳小長谷女王の父.

生年は明かではないが『続日本紀』では第九皇子とある.

672年の壬申の乱で父天武天皇に従い吉野から東国に赴く.

679年,吉野の盟約に参加.

685年,冠位四十八階に基づき浄大参を賜わる.

703年,に知太政官事に就任.


磯城皇子(生年没年不明)
忍壁皇子の同母弟であるが事績に不明な点が多い.


弘文天皇(大友皇子)の皇子
与多王(生年没年不明)

与多王は弘文天皇 (大友皇子)の皇子と言われているが,「日本書紀」に名前の出ない人物で園城寺(三井寺)の開基とされる人物であるから,藤原京の近くに墓があると考えるのは難しいだろう.

よって,被葬者の候補にはしない.


この皇子たちのなかでも身分の上下がある.

一番天皇位に近いのは何といっても草壁皇子であろう.

彼は皇太子にまでなっており,あと少し長生きできていれば確実に天皇となれたはずだ.

次点としては弓削皇子である.

彼の母親は天智天皇皇女であったから,天皇にもなれる血筋であった.

但し,異母兄弟に天智天皇皇女を母とする兄が既にいたこと,さらには同母兄として長皇子がいたことから,実質的には望みが少なかった.

その他の皇子たちの母は皇族出身でなかったことから天皇になれる血筋ではなかった.

それでは,高松塚・キトラ古墳の被葬者は草壁皇子と弓削皇子となるのであろうか.

そうであればどちらの皇子がどちらの古墳に葬られたことになるのだろう.

さらに特定するために次回は高松塚古墳の異常性について確認していきたい.


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by Allegro-nontroppo | 2014-06-03 19:08 | 高松塚・キトラ古墳
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