邪馬台国へ至る前史

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先週の土曜日,出かけるついでに本屋に寄ってみると,2014年7月号の「歴史読本」が発売していたので購入した.
今号の特集は「謎の女王卑弥呼の正体」(
HPはこちら)である.
何とタイムリーなことだろうと早速,電車で読みつつ向かった先で受講したのは

「日本列島の国家形成ー日本の国の成り立ちを考えるー」第二回「倭国の成立と展開―「イト」倭国から「新生」倭国へー」である.

講師は桜井市纒向学研究センター所長 寺澤薫氏である.

先月受講した第一回「日本列島の国家誕生」に引き続いての講義である.
この講義は邪馬台国からヤマト王権への過程について講義されるということで,「歴史読本」はよい予習or復習教材となる.
地道に読み進めたい.

今回も受講希望者が殺到したようで,抽選の上,参加者が選ばれたそうだ.

そのため,前回の講義を復習しつつ・・・という形がとられた.

復習の部分は除いて,今回の内容を下記にまとめてみる.

紀元前後から北部九州では二大部族的国家連合が台頭してくる.

奴国と伊都国である.

遺跡や出土物から判断すると奴国は一大テクノポリスであったようである.

一方で伊都国は政治や祭祀の中心であったようだ.

なんとこの二大国家間には戦争があった痕跡は発見されておらず,共存したとされているという.

この時期を記した「後漢書」東夷伝では

AD.57 「奴国王」の朝貢記事(「漢委奴国王」の金印)

AD.107 安帝永初元年倭国王帥升献生口百六十人願請見

とある.

ここで初めて「倭国王」という称号が明記され,倭国王とその他が漢に朝貢したと記載されている.

この倭国王「帥升」は同時期築造の墓から推測するに,井原鑓溝遺跡の伊都国王しか該当するような人物は見当たらない.

ちなみに,この帥升から三代ほど後の最後の伊都国王の墓からは大量の中国製の鏡が出土しており,弥生時代で最大の墓とされている.

以上から,AD.57以降に奴国と伊都国は手を結び,AD.107までには伊都国を中心とした倭国が成立していたと考えられるということだ.

ところが,「後漢書」東夷伝を読むと,この帥升から七八十年後,倭国が乱れたという.

結果,一人の女王「卑弥呼」を共立したというのだ.

倭国乱の理由としては倭国のバックにいた漢王朝の弱体化や北部九州の耕地が限界となり(花粉分析によると当時の遺跡からはアラカシやマツの花粉がほとんどである.これらの木々は何度も伐採が繰り返されたあとに生える),閉塞感があったためであったと考えられる.

ただ,「魏志」倭人伝に「倭国乱相攻伐暦年」とあるが,倭国乱の時代にはほんの一部を除き,戦争があった痕跡がないため,著者陳寿の誤解ではないかと思われる.

ところで,倭国乱の頃の日本列島では地域性が出てきている.

祭祀において,北部九州や四国の一部では広形銅矛や広形銅戈が使用されていたが,吉備では後の円筒埴輪の原型である特殊器台が用いられ,近畿では近畿式銅鐸,伊勢から愛知のほうでは三遠式銅鐸が使用され始めた.

また,出雲や越では四隅突出型方丘墳,北陸では方丘墳,そして岡山・倉敷では円丘墳が造られるようになった.


そして3世紀の初めに突如,近畿地方に纏向遺跡が造られることになる.

この纏向遺跡はそれまでの弥生時代の遺跡と異なる点が大分多い.

弥生時代のシャーマンは稲の魂を運ぶ鳥であるサギの仮面や恰好をしていたが,纏向遺跡では人型の仮面が見つかっている.

これは纏向遺跡では神が人格化したことを表している.

また,湧き水のための穴のまわりで祭祀をした痕跡が残っているが,火を起こし,その燃え残りを穴に投げ込んでいる.

これは陰陽思想と関係しているようである.

弥生時代の遺跡では圧倒的に鍬の出土数が多く,鋤の出土数はごくわずかであったのが纏向遺跡ではその数が逆転している.

鍬は農作業でつかわれ,鋤は土木工事で使われていた.

纏向では田んぼの痕跡もほとんどない.

鏡の出土数についても纏向遺跡以前は北部九州が圧倒的に多かったのが以後同数程度になり,箸墓古墳の時期になると近畿の方が多くなる.

さらに纏向遺跡では日本で最初と思われるベニバナの花粉も出土している.

この次の時代の遺跡であれば6世紀の上宮遺跡や斑鳩古墳で発見されている.

極め付けは前方後円墳の出現である.

最も古い形式は纏向遺跡の石塚・八塚・ホケノ山古墳と言われているが,同時期に各地で造られた前方後円墳に纏向遺跡を超える大きさは存在しない.

よって,纏向遺跡は「ヤマト王権」=「新生倭国」の最初の大王都=「王国」の誕生が結論付けられる.


また,倭国は伊都からヤマトに遷都したのだという.

纏向遺跡では3世紀前半の4棟の大王宮が発見されており,これらは同一軸線上にきれいに並んでいるらしい.

記紀における崇神・垂仁・景行紀の王宮の場所とも一致していることもこの結論を補足する.

寺澤氏はヤマト王権の系譜は「畿内ではない」と考えておられるという.

その理由として,前方後円墳は岡山の円丘墳が起源となっていることが挙げられるという.

次回の講義では倭国は伊都からヤマトに遷都した理由と卑弥呼共立の裏事情などが語られるらしい.

このあたりが分からなかったせいで,今回の講義はどうも消化不良である.

できれば次回も参加したいが,さすがに次回当選する確率は低そうである.

講義内容の抄録など作成してもらえないものであろうか.



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by Allegro-nontroppo | 2014-05-27 19:19 | 講演会,シンポジウムなど
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