高松塚・キトラ古墳考② ー時期の特定ー

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今回は高松塚・キトラ古墳の築造時期と被葬者の死亡時期について考えてみる.
高松塚・キトラ古墳はその形状から大化の改新で定められた「薄葬令」以降の古墳,つまり終末期古墳に分類される.

もう少し,築造時期を特定できないであろうか.

高松塚・キトラ古墳の立地している場所に注目したい.
この周辺には壬申の乱で有名な天武天皇とそのあとを継いだ持統天皇の合葬陵や文武天皇陵などが立地する天皇家の墓域とも呼べる地域である.
また,この墓域の南にはかつて藤原京が存在していた.
Yahoo地図よりこの墓域の地図を用意してみた.
赤い矢印6個を見ていただきたい.
地図の上部にある藤原京朱雀大路跡から菖蒲池古墳,天武・持統天皇合葬陵,高松塚古墳,文武天皇陵,そしてキトラ古墳がほぼ一直線に並んでいるのがわかるはずだ.
上記古墳に中尾山古墳を加えて「聖なるライン」と呼ばれることもあるそうだ.
朱雀大路は藤原京中心を南北に突っ切る中軸の道路であった.
この延長上に古墳を築造しようと思うならば,藤原京の造営計画がある程度出来上がっていなければならないだろう.
「聖なるライン」がただの偶然だとしても,藤原京のごく近くの墓域に築造されている以上,藤原京との関係を否定することはできないだろう.
そう考えると藤原京が平城京に遷都した後にわざわざ戻って築造されたと考えるのも難しくなる.
ということは,藤原京着工とされる西暦676年から平城京遷都の西暦710年くらいであろうか.
下限については+5年ほど余裕をみて西暦715年としてもよいかもしれない.

次に被葬者の埋葬方法から,被葬者の死亡時期を特定したい.

高松塚・キトラ古墳と同墓域に葬られた天武天皇から考えてみる.
天武天皇は西暦686年10月に亡くなり,約2年間の殯の後,西暦688年11月に埋葬されている.
殯とは死者を本葬するまでの長い期間,遺体を仮安置し,遺体の腐敗・白骨化などを確認し,「死」を確認することという.
この天武天皇の殯であるが,日本書紀に記載される他の天皇に比べて断トツに長いのである.
これは天武天皇が時代の転換期を作ったという意味で特別な天皇であったことも理由に含まれるであろう.
西暦676年~715年に死亡した者の中にこの天武天皇を超える人物がいたとは到底思えないから,殯の期間は2年より短くなると思われる.

天武天皇からもう一つ推測できることがある.
藤原京の南の墓域に埋葬された最初の人は天武天皇ではないかということである.
いくら,既に着工されているとはいえ,まだ完成されていない都のすぐそばに古墳を作ろうと思えるであろうか.
とてもそうは思えない.
天武天皇の古墳が藤原京の真南に築造されることが藤原京遷都への一つの過程であったのではないだろうか.
「あの偉大な天武天皇が見守ってくださる都だ」と思わせることは皆の遷都への意欲を駆り立てたに違いない.
もしかしたら,長すぎる殯の期間はある程度,造営の目途が見える時期を待っていたのではないかとも思える.

以上のことから築造時期については西暦688年以降と考えられるが,一つ問題が残っている.
それは移葬・再葬・改葬の可能性である.
例えば,聖徳太子とセットで有名な推古天皇は植山古墳に埋葬されたが,後年,時期は不明ながら,河内国磯長山田陵に改葬されたという.
もし,高松塚・キトラ古墳の被葬者も同じように改葬などされていたら,死亡時期の特定は困難になってしまうが,やはり,藤原京のすぐ南の墓域に築造されているということで藤原京と関係がある人物と考えてよいと思う.

被葬者の死亡時期の下限について考えてみる.
高松塚・キトラ古墳の出土遺物に棺の痕跡があった以上,被葬者は火葬されていないと考えてよいであろう.
ところで,天皇の中で最初に火葬されたのは持統天皇で続く文武天皇,元明天皇も火葬されている.
持統天皇の頃は移行期間と考えて火葬されない人がいたとしても,文武天皇の死亡時期頃には火葬が主流となったと考えられる.
よって,被葬者の死亡時期の下限として,文武天皇が死亡した西暦707年としたい.

以上より,西暦688年~707年に死亡した人から該当者を探してみたい.
次回は被葬者の地位から候補者を探してみたいと思う.


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by Allegro-nontroppo | 2014-05-25 17:30 | 高松塚・キトラ古墳
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