「脇本遺跡の調査結果から古墳時代の王宮について考える」 その2

脇本遺跡の特長についてまとめてみると
・大型の建造物(掘立柱建物や池状遺構)
・初瀬谷に在地氏族の痕跡がないこと(文献や地名から分からない)
・この周辺のみ古墳が存在しない
・記紀などから天皇家との関係が疑われる
ということから,王宮が建設されていたのではないかと考えられる.

ここで泊瀬のつく王宮をもつ天皇を確認したい.





雄略天皇は在位は5世紀後半(古墳時代)と考えられている.
記紀によれば王宮は泊瀬朝倉宮である.
この脇本遺跡近くの春日神社付近には「あさくら」という地名が残っているためかなり信憑性が高い.
ところで雄略天皇に関する記述は記紀のみではない.
埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣(国宝)によれば雄略天皇(ワカタケル大王)は斯鬼宮で政務を取っていたとある.
この王宮名の整合性については古事記 垂仁天皇条より「倭者師木登美豊朝倉曙立王」から,師木のなかに朝倉という地域があったと考えられるとのことである.

武烈天皇(5世紀後半?)は実在したかどうか議論の余地が残る天皇である.
記紀によれば王宮は泊瀬列城宮である.
脇本遺跡より北東へ進んだ出雲という地域に武烈天皇に関わるような地名があるため推定地とされているが,ほとんど発掘されていないため,よく分かっていない.

欽明天皇(6世紀)は王宮は磯城島金刺宮と記紀に記載がある.
初瀬川と栗原川に挟まれた地域に城島(しきしま)という地域があり,また場所の特性から島のようにも見えることから,推定地とされている.
また,興福寺の文献にもあるということである.

天武天皇(7世紀後半)については王宮といっても,天武天皇自身がそこで政務をとっていたわけではない.
天武天皇皇女大来皇女が斎王となるためこもった泊瀬斎宮がここにあったとされる.
また,天武・持統天皇が初瀬に行幸したとの記事が紀に見られるために行宮があった可能性もある.

以上の天皇たちの王宮が脇本遺跡にあった可能性はあるが,未だ確証となる遺物は見つかっていない.
さらに,王宮があったと考えるにはまだまだ発掘されている建物の遺構の数が少ない.
もちろん,まだ発掘されていない可能性はかなり高い.
脇本遺跡周辺には住宅が多く,発掘を進めることができないのだ.

そこで古墳時代の豪族居館から,当時の王宮について想像してみる.
参考となるのは同時代の豪族居館と言われている上之宮遺跡,極楽寺ヒビキ遺跡,秋津遺跡及び三ツ寺Ⅰ遺跡である.
極楽寺ヒビキ遺跡及び秋津遺跡は所在地などから葛城氏に関する居館であったと推測されている.
また,上之宮遺跡については阿部氏に関する居館であったと推測されている.
これらの居館に共通するのは
・集落全体を取り囲む塀などの施設がなく,開放的
・様々な階層の人々を取り込んだ集落
・用途により区画別けされている(政庁や工房など)
のような特徴がある.
おそらく同時代,雄略天皇の王宮も同様な特徴をもっていると推測される.
欽明天皇の娘である推古天皇の時代となると,王宮は飛鳥内に作られるようになる.
さらに推古天皇の小墾田宮となると中国の影響を受けて左右対称の王宮となっている.

以上が今回の大和考古学講座の内容であった.
このように想像が広がる脇本遺跡であるが,この遺跡の発掘調査はひとまず終了したそうで,今のところ再開の予定はないそうである.
残念ではあるが,他の遺跡が発掘されることで脇本遺跡について分かってくることもあろうから,そこに期待したい.






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by Allegro-nontroppo | 2014-04-15 19:17 | 講演会,シンポジウムなど
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