アマテラス及び神宮考⑩ -神宮の制度-

そろそろ、アマテラスと神宮について確認しておきたい知識は書き終わったと思い、チェックしていたところ驚愕した。
まだ、まともに式年遷宮や斎宮について触れていない。
というわけで、いくつかの制度についてまとめてみたい。

 今年2013年、足かけ8年にわたる神宮の式年遷宮が終了した。
式年遷宮について「延喜式」には以下のように記載されている。
二十年に一度、宮地を改め、」社殿や神宝をはじめすべてを古例のままに一新して、天照大神に新宮へとお遷り願う神宮最大の厳儀である。
先の記事(アマテラス及び神宮考③ -記紀・人代(天武天皇)と神宮-及びアマテラス及び神宮考④ -記紀・人代(持統天皇)と神宮-)に記したとおり、天武天皇が発意し、持統天皇の御代に実施されたということである。
ということは、それ以前は特に式年遷宮をやる必要がなかったということになる。





ところで、なぜ式年遷宮は二十年に一度執り行われることとなっているのだろうか。
定説はないようだが、今のところは耐用年数の限界説や技術継承の限界説が有力なようである。
それが本当だとすれば、人間側の事情で神宮を振り回しているようにもとれてしまう。
具体的な年数の指定はともかくとして、その根底には「常若」の思想が流れているという。
神々は常に若々しく瑞々しい存在であり、その神々の頂点のアマテラスのおわす神宮は常に清浄であるために聖なる場所を一新する必要があるということだ。
ところが、この式年遷宮は中断されてしまった時期がある。
中世、戦乱の世となると、役夫工米(式年遷宮のために徴収する税)が滞り、百二十三年もの間、恒例祭のみ行い、社殿は荒廃していった。
そこで立ち上がったのは慶光院(現伊勢市)の尼僧たちであった。
彼女たちは諸国を廻り、庶民から式年遷宮の浄財を集めたというのである。
この逸話はいかに神宮であれ、神仏習合がすすんでいたかということを物語っている。
このとき、豊受大神宮の遷宮の実現が叶い、その後は大名らの協力のもと、皇大神宮の遷宮も実現する。
その後は徳川家の支援などもあり、今日まで続いているようだ。
(ただし、第二次世界大戦後の1945年の遷宮は宇治橋架け替えのみ実施)

 式年遷宮の準備期間8年間にはいくつもの祭儀がとり行われるが、詳細はここには書かない。
特徴としては、御用材の伐採・運搬、切組み、乾燥などの過程をたどり、神宝の奉製・調製など、造営と祭儀が交互に配されている。
また、遷御をはじめ、遷宮諸祭では宮内庁に伺い出て、日時をお定め頂くのも特徴と言えるだろう。

 斎王は天皇に代わって神宮に仕える未婚の皇女や王女のことで卜占によって選出される。
似たような存在に賀茂神社に仕える未婚の皇女や王女である斎院があるが、こちらは平安時代より奉じられるようになった。
斎王については先の記事(アマテラス及び神宮考③ -記紀・人代(天武天皇)と神宮-)にも書いた大来皇女から、確実に実在したとされている。
斎王に選出された女性は、内裏に設けられた「初斎院」と呼ばれる御殿で一年間過ごし、宮城外の「野宮」で二年間の潔斎を行った。
選出後三年目に斎王は天皇の御前に上がり、天皇直々に櫛を挿してもらう「別れの御櫛」という儀式を行う。
この儀式は斎院にはない斎王のみの儀式でその際には天皇に「都の方に赴き給うな」と言葉をかけられる。
そして、一切振り返らずに、「群行」と呼ばれる盛大な行列を従えて伊勢に下って行ったという。
こうして、斎王はアマテラスに仕えることとなるが、斎王が退下できる理由は、天皇の代替わり、斎王自身の病気や死、そして斎王肉親の死のいずれかのみであった。


 有名な斎王としては、先に挙げた大来皇女の他に、光仁天皇の皇后となるが無実の罪を着せられ息子の皇太子とともに変死したと伝わる井上内親王、三十六歌仙の一人で「斎宮女御」で知られる徽子女王とその娘、規子内親王だろうか。
 物語の登場人物としては六条御息所の娘、秋好中宮が有名だろう。 この母娘のモデルは徽子女王とその娘、規子内親王と言われている。

 神宮では私幣禁断が義務付けられていた。 延喜式には下記のように記載されている。
凡そ王臣以下、鞭く大神宮に幣畠を供うるを得ず。
其れ三后・皇太子、もし供うべきあらば、臨時に奏聞せよ。

一般人であれ、皇族であれ、神宮に参拝は許されず、皇后、皇太子であっても天皇に許可を得なければ参拝することができなかったということだ。
明治天皇以前に一人も天皇が参拝しなかったのは、ここからきているのであろうが、この理由はよく分からない。




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by Allegro-nontroppo | 2013-11-24 20:23 | アマテラスと伊勢
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