アマテラス及び神宮考④ -記紀・人代(持統天皇)と神宮-

ついに日本書紀の最後の天皇、持統天皇である。

 持統天皇治世時についに第一回目の式年遷宮が行われる運びとなっている。
 ところが、式年遷宮については日本書紀に記載がないのだ。
では、その根拠となっているのは何かといえば、皇大神宮儀式帳である。
西暦804年に皇大神宮禰宜が神祇官に提出した「皇大神宮儀式帳」は先の記事(アマテラス及び神宮考② -記紀・人代(崇神天皇、垂仁天皇)と神宮-)に出てきた、「止由気宮儀式帳」とあわせて「伊勢大神宮儀式帳」「延暦儀式帳」ともいう。




皇大神宮儀式帳をみると、まず、天武天皇14年に式年遷宮の制を制定され、持統天皇4年に第1回皇大神宮の式年遷宮、同6年に第1回豊受大神宮式年遷宮が行われている。
 さらに、約20年後に、皇大神宮の2年後に豊受大神宮の式年遷宮が行われた。
おおよそ20年後に式年遷宮が行われたということは、すでにこの時に約20年毎に式年遷宮するべきだという考えがあったのだろうと思う。
また、皇大神宮遷宮の二年後に豊受大神宮遷宮を行うことも決まっていた。
このあたりの年数の理由はよく分からないし、また日本書紀にはっきりとした記述がない理由もよく分からない。
 
 日本書紀に戻り、持統紀の伊勢に関する記述を確認してみると、初代斎宮となった大来皇女の帰還(先の記事:アマテラス及び神宮考③ -記紀・人代(天武天皇)と神宮-を参照のこと)を除いて、持統紀6年に集中している。
持統天皇の伊勢行幸である。

 持統紀6年の2月10日に持統天皇は「3月に伊勢に行こうと思うので準備するよう」いわれた。
19日に三輪朝臣高市麻呂が行幸は農時の妨げになると諌めている。
3月3日になり、高市麻呂は職を辞して重ねて諌めたが、6日に持統天皇は行幸された。
その際、通過する神郡(度会・多気)、伊賀、伊勢、志摩の国造に冠位を賜り、当年の調役を免じ、また、別日には志摩国の百姓、男女80歳以上に、稲50束を賜った。
他にも通過した土地の民の労をねぎらい、物を賜って奏楽をさせた。
 
 神宮について、謎とされていることの一つに、明治天皇以前の天皇は誰も神宮参拝をしていないというものがある。
その謎で問題となるのは、持統天皇は伊勢行幸はなされたが、神宮参拝をしたのかどうかという点である。
参拝したという記述がない以上、参拝していないのだという人もあるし、伊勢に行った以上、参拝するのが当然でわざわざ記載する必要がなかったから、記載がないのだという人もいる。
それでは何故、このタイミングで持統天皇は伊勢行幸を行ったのだろう。
持統紀6年と言えば、豊受大神宮の第1回式年遷宮の年であり、それならば神宮視察に行ったのではないかと考えるのが自然であろう。
しかし、この式年遷宮については日本書紀には一切記載がないうえに、持統天皇が参拝したという記述もないのでは、そのように考えていいものか判断に迷うところである。

 もう一点、不思議なことはこの行幸を2回も高市麻呂が諌めているということである。
理由はどちらも農事の妨げとのことなので、田植や種まきなどの事だろうか。
確かに天皇行幸ということで、行宮を造営したり、供奉の騎士や諸司の荷丁をつれているようなので、妨げとなったことは間違いない。
 しかし、1回目の諫言はともかく、2回目の時には既に行宮の造営はある程度まで進んでいたであろうし、騎士や荷丁の準備も進んでいたのではないか。
2回目の諫言の3日後には伊勢に出発している。
壬申の乱では出発の翌日には伊勢に到着しているわけで、無論、乱のときと同じような速度で移動するとは考えられないが、それでも、出発の2,3日後には伊勢には到着する見込みがあったのではないだろうか。
そうであれば3日にはかなりの準備が進んでいたと考えられ、またここでやめてしまったでは、それまでの準備が水の泡である。
というわけで、2回目のタイミングであれば調役の免除などの上奏が適切でないかと思う。
実際に行宮を造営のための役夫、供奉の騎士や諸司の荷丁にはその年の調役を免じている。
それ以前に、2度もの諫言を振り切って、持統天皇は出発しているのだ。
このように考えてみると、高市麻呂の諫言には裏があるように思えるし、それを聞き入れずに行幸した持統天皇にも何か意味があったのではないかと考えてしまう。
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by Allegro-nontroppo | 2013-11-10 00:16 | アマテラスと伊勢
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