アマテラスと神宮は歴史の流れとともに変容してきた。
それは他宗教の隆盛のためであったり、内部の人間のためであったり、また政治的に利用されたためであったりその時々によって理由は違う。 神宮が鎮座後、大きく変容したのは天武、持統両天皇の治世時であろう。 よって、記紀における記述を見ていきたいが、残念ながら、古事記については、推古天皇の時代までの歴史書であるため、ここからは日本書紀の記述を見ていくこととする。 天武、持統両天皇の時代には神宮に関する2つの独特な制度が定められた。 それは斎宮と式年遷宮である。 本記事では天武紀について見ていこうと思う。 式年遷宮については実施時期が持統天皇治世時より開始するので、次回に譲り、今回は斎宮制度について見てみよう。 概略1 天武天皇2年4月14日に大来皇女は斎王制度確立後に初代斎王(斎宮)として泊瀬斎宮に入り、翌3年10月9日に伊勢国に下向した。 朱鳥元年10月3日に大津皇子が謀反人として死を賜った後、11月17日に退下し、都に帰った。 ちなみに天武天皇4年2月13日に、十市皇女と阿陪皇女(後の元明天皇)が伊勢神宮に参詣した。朱鳥元年4月27日には、多紀皇女・山背姫王・石川夫人が伊勢神宮に遣わされている。 大来皇女以前にも斎宮の記述があるが、天武天皇が斎宮制度を定めた発端について、はっきりと記載があるために大来皇女こそが、本当の意味での初代斎宮であり、それ以前の斎宮は後世の虚構であるとする説もある。 それでは、斎宮制度確立の発端というのは何だろうか。 それは、古代史最大の戦乱、壬申の乱にある。 回り道になるかもしれないが当時の状況をおさえておくために、ここは壬申の乱について、きちんと復習しておきたい。 概略2 天智天皇は死の直前に大海人皇子(後の天武天皇)を枕元に呼び「皇位を譲りたい」といったが、謀略の可能性があることを事前に示唆されていた、大海人皇子はそれを辞退し、吉野へ出家することを望み、自身の武器を差し出した。 こうして、皇后(のちの持統天皇)と二人の皇子を連れて、吉野で隠遁生活を送ることとなった。 やがて、天智天皇が崩御し、その息子である大友皇子は山陵を造ることとなったのだが、実は大海人皇子との戦支度をしているという連絡が入る。 そこで、大海人皇子は近江朝に仕える二人の息子(高市皇子、大津皇子)に、伊勢で落ち合うことを連絡し、東国に向かうこととなった。 厳しい道を皇后や皇子たち、そして少ない手勢を連れ、伊賀に入り、甲賀で高市皇子と落ち合った。 伊勢では天照大神を遥拝し、鈴鹿をおさえた。 その後、大津皇子とも落ち合い、徐々に手勢を増やしながら(伊賀、伊勢、尾張など地方豪族たち)、美濃に入り、不破(現在の、関ヶ原)の道を封鎖することに成功した。 近江朝では、大海人皇子が東国へ逃れたとの知らせに騒然となった。 九州の豪族たちに援軍を頼んだが、何かと理由をつけて兵が動員されることはなかった。 そうこうしているうちに飛鳥京に残っていた者たちが乱を起こし、近江朝は敗北してしまう。 大海人皇子の軍も近江へせまり、ついに大友皇子は自害し、乱は終結する。 大海人皇子の勝因はまず第一に、鈴鹿と不破をいち早く抑えたこと、第二にそれに伴い、東国の豪族たちを味方につけたこと、第三に飛鳥京の豪族たちが乱を起こしてくれたことがあげられるだろう。 大海人皇子の乳母は大海氏(大海人皇子の名前はここからとられたらしい)といい、尾張氏に仕える一族であったから、尾張氏については、最初から協力してもらえる勝算があったと思われる。 余談だが、天武十三年には伊賀、伊勢、美濃、尾張の四か国に調のある年は役を免じ、役のある年には調を免除するよう詔がはっせられている。 おそらく、壬申の乱に報いてのことと思われる。 逆に大友皇子の場合、第一に大海人皇子への対処が遅れたこと、第二に九州の豪族たちの協力が薄かったこと、第三は天智天皇の負の遺産を解消しきれなかったことが挙げられるだろう。 大海人皇子はもともと、乱を起こす準備があった節があるが、今回はこの辺にしておいて、アマテラスと神宮についてピックアップしたいと思う。 壬申の乱では吉野脱出の途上、大海人皇子が天照大神を遥拝している。 これは朝明郡(三重県三重郡)においてのことであるが、なぜこのタイミングで遥拝したかがよく分からない。 というのは、前日通過した鈴鹿の方が伊勢に近いからである。 普通、何かを願い、神に拝むのならば、たとえ、参拝することはできなくても、その神に最も近い地点で遥拝するものではなかろうか。 確かに鈴鹿を通過した日というのは、吉野脱出後一日目であり、悪天候に見舞われたりもしていることから、かなり忙しい日であったことは確かだが、全く、遥拝する暇がなかったようにも読み取れない。 この件はひとまず置いといて、壬申の乱を制した天武天皇は、天照大神に感謝し、娘である大来皇女を斎宮として、捧げた。 泊瀬斎宮にて身を清めた後、伊勢国に下向という流れは後の斎宮たちと同じである。 ここで気になるのは大来皇女が伊勢に下向する際は伊勢神宮の表記であったのが、退下の際は伊勢神祠となっていることである。 大来皇女が下向した時には立派に神殿があったが、退下する際は祠になってしまっていたなど、時の天皇が尊崇している状況ではありえないのではないか。 また、万葉集には大津皇子が伊勢を訪れた際に大来皇女の作った歌がおさめられているが、大津皇子の伊勢下向は日本書紀には一切の記載がない。 他の皇女たちの伊勢下向に関しては記述があるというのに、なぜ、彼の下向は記載されなかったのだろうか。
by Allegro-nontroppo
| 2013-11-08 02:39
| アマテラスと伊勢
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