アマテラス及び神宮考② -記紀・人代(崇神天皇、垂仁天皇)と神宮-

アマテラスについて考えるために神宮(もちろん伊勢神宮)について、記紀の関連記事を確認したい。

神宮といえば皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)が有名であるが、他に別宮、摂社、末社、所管社の計125社をあわせて神宮という。
よって伊勢市内だけでなく、松阪市、鳥羽市、度会郡、多気郡、志摩市にわたって点在していることとなる。

それではまず、神宮鎮座の経緯からみていきたい。
神宮鎮座については崇神紀より始まる。
以下に概略をまとめてみた。




概略
 そもそも、天孫降臨の際に、アマテラスはニニギに八尺瓊勾玉、草薙剣、そして八咫鏡を授け、特に古事記では「この鏡を私の御魂と思って私を拝むのと同じように敬い、祀りなさい」と指示した。
よって、第10代崇神天皇の代まで同床共殿、つまり、宮中にアマテラスを祀ってきた。
崇神紀5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えたため、この同床共殿を畏れ多いこととして、崇神紀6年にアマテラスと倭大国魂神(大和大国魂神)を宮中外に遷すこととなった。
アマテラスを豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせ、倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。
崇神紀7年2月、オオモノヌシが倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(オオモノヌシの子または子孫)をオオモノヌシを祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。
 一方、アマテラスはその後、第11代垂仁天皇皇女、倭姫命が豊鍬入姫命の跡を継ぎ、アマテラスの御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる。


 以上が概略であるが、何か記載ミスをしたのではないかと疑うほどに疑問に思える点が多い。

 まず、アマテラスの指示で宮中に祀ってきたのに疫病が流行し、宮中外に遷すことになったという点だ。
アマテラスの指示との他にもう一つ、矛盾が隠されている。
疫病が流行したという点だ。

 現代医学において、疫病の原因は細菌やウィルスなどによるものと解明されているが、古くはその原因は祟り(疫神、怨霊など)が原因と考えられていた。
祟りは無差別に起こるものではない。
特に怨霊信仰が盛んであった時代まではある程度ルールがあった。
まず、一般庶民でない、高貴な人物のみが怨霊となれた。
また、無実の罪を着せられ、非業の死を遂げた人物であった。
最後に、これが今回重要な点だと思うが、きちんと祀ることで祟りは収まった。
きちんと祀るというのは神格化し、その子孫たちに祀らせたりもする。
神格化された神々の中で有名なのは、やはり、日本三大怨霊、平将門、菅原道真、崇徳上皇であろう。
子孫に祀らせるという点においては古代中国・殷時代にその起源があるらしい。
また、全ての怨霊神が子孫に祀られているわけではないようだが、子孫によって祀られた例としては崇神紀にある。
オオモノヌシの子または子孫である、大田根子を祭主としたところ、疫病が終息したという部分である。

 少し話は逸れるが、私は祟りが実際に存在するかしないかはわからない。
ただ、歴史上で祟りが存在すると信じ、それによって人々の行動に変化があるならば、その周辺をきちんと調査しない限り、その歴史を見誤るだろうと考えている。

 話を元に戻すと、崇神天皇時代に子孫が祀れば神は鎮まるという思想があったにも関わらず、子孫である崇神天皇が祀っていたアマテラスが祟りを引き起こしたと考えられていたという結論が得られる。
この祟りについてはアマテラスや神宮を理解するうえでかなり重要ではないかと私は感じているのだが、いかがであろうか。

 次のおかしな点は、アマテラスと倭大国魂神(大和大国魂神)を同時に宮中外に遷した点だ。
この二神はあまりに出自が違う。
アマテラスについては先の記事(アマテラス及び神宮考① -記紀・神代とアマテラス-)をご覧頂くとして,倭大国魂神はオオクニヌシの異名の一つと言われている。
オオクニヌシと言えば、先の記事(アマテラス及び神宮考① -記紀・神代とアマテラス-)では省いてしまったが、記紀・神代では最大の山場ともいえる国譲りの登場人物(登場神?)で出雲大社の祭神である。
このあたりの話についてはまた別の機会に書いてみたいと思っているのでここでは特に記載しないが、アマテラス(天津神)とオオクニヌシ(国津神)は基本的に仲は良くないと考えておいてよい。
このことから、アマテラスと倭大国魂神、二神そろって、祟りをなすとは非常に考えづらいのだ。
また、どちらか一方が祟りをなしたとしても、崇神天皇にはどちらが原因なのか分からなかったということになってしまう。

 おかしな点はまだある.
疫病をうけて宮中外に遷されたのはアマテラスと倭大国魂神であったはずなのに,崇神天皇7年11月に祀ったのはオオモノヌシと倭大国魂神にすり替わっている点だ。
 
 さらに、オオモノヌシと倭大国魂神を祀ることによって、疫病が終息し、五穀豊穣となったからにはアマテラスはこの祟りに関して無実であったのだ。
これに関しては、倭大国魂神を祭っていた渟名城入媛命のみが、先の概略に記したとおり、祟りを受けている点(髪が抜け落ち、体も痩せて、祭祀が出来なくなった)からも推察できるということだろうか。

 疑われた皇祖神アマテラスはこれで宮中に戻れたかと思いきや、なんとその後、諸国を放浪することとなる。
 これは、倭姫命巡幸と言われ,鎌倉時代成立の「倭姫命世記」に詳しく書かれている。(ただし、時代が下ってしまうので、どこまで信用できるかは各書物と比較して、現実的に判断しなければならないだろう)
とにかく、この放浪の末にアマテラスの神託により、伊勢に鎮座したのであった。
一体、なぜ、伊勢に遷らなければならなかったのだろう。

 ここまで記したのはあくまで、伊勢の皇大神宮(内宮)の鎮座についてであり、豊受大神宮(外宮)の鎮座について記紀全体において、いっさい、記載がない。
西暦804年に編纂された社伝『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇22年、天皇の夢にアマテラスが現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託したので、内宮に近い山田の地に豊受大御神を迎えて祀ったということだ。
第21代雄略天皇についてはもちろん記紀に記されている。
それなのに何故、記載がないのか。
また、なぜ一人では安らかに食事ができないのか。
そして、なぜ豊受大御神でなければならなかったのか。

 最後にここまでのアマテラスについての内容は大部分が日本書紀に従ったもので、古事記においてはほとんど記載がない。
古事記には、崇神紀に豊鉏比売命が伊勢大神の宮を拝き祭ったことと、垂仁紀に倭日売命も伊勢大神の宮を拝き祭ったことが書かれているのみである。

 神宮鎮座についても謎が多い。
 これは何を意味するのだろうか。
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by Allegro-nontroppo | 2013-11-03 21:13 | アマテラスと伊勢
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