アマテラス及び神宮考① -記紀・神代とアマテラス-

 私が古代史に興味を持ったのは歴史ミステリと呼ばれる種々の本に手を出したところからはじまる。
ただ、読むだけで満足していたのが、自身の環境の変化、世界各国のニュース(宗教関連、民族問題)など目にするうちに「日本人の本質とは何ぞや」と思うようになってきた。
また、本を読んでいくうちにどうにも納得いかない説が出てきて、自分の納得のいく筋道を考え出したということもある。
 そんな中で日本人の本質が出来上がったのは歴史学で分類するところの古代ではないかと考えるようになり、特に日本神話に没頭していくこととなった。

 このブログではまずアマテラスと神宮について考えてみようと思う。
アマテラスと神宮については調査してみるべきと思いながらも、何年も手を出すのをためらっていた。
やはり、日本人の総氏神と言われているが、それゆえに、他の神々や神社と比較すると非常に特異的であるからである。
やっとのことで、いざ、手をつけてみるとみると非常に手ごわく、どんな考えもしっくりこない。
 ただ、とにかく一度、まとめておかなくては、また再考する際に調べなおすのに手間がかかってしまう。
 そこであまり固く考えずに今現在の考えを綴っていこうと思う。

 なお、既に常識となっている説や情報もなるだけ記載し、今後の再考の際に備えたいと思う。




 
 最も古い形のアマテラスを考える上で重要となってくるのは、もちろん、日本最古の歴史書と言われる古事記及び日本書紀であろう。
 そこで古事記 上巻及び日本書紀 神代紀におけるアマテラスについて概略をまとめてみた。

記紀の概略
 記紀において、アマテラスはイザナギがイザナミの居る黄泉の国より帰還し、黄泉の穢れを洗い流した際、左目を洗ったときに誕生したとされる。このとき右目から生まれたツクヨミ、鼻から生まれたスサノオと共に、古事記では三貴子と呼ばれている。このときイザナギはアマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の食国を、スサノオには海原を治めるように指示した。
 一方、日本書紀 神代紀の第五段では、本文で「日の光に次ぐ輝きを放つ月の神を生み、天に送って日とならんで支配すべき存在とした」と簡潔に記されているのみであるが、続く第一の一書にある異伝には、イザナギが左の手に白銅鏡を取り持って大日孁尊(アマテラスの異名とされている)を生み、右の手に白銅鏡を取り持って月弓尊(ツクヨミの異名とされている)を生んでいる。
 海原を委任されたスサノオは、イザナミのいる根の国に行きたいと言って泣き続けたためイザナギによって追放された。スサノオは根の国へ行く前に姉のアマテラスに会おうと高天原に上ったが、アマテラスは弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。
スサノオの潔白を証明するために誓約をし、アマテラスの物実から五柱の男神、スサノオの物実から三柱の女神が生まれ、スサノオは勝利を宣言する。
これで気を良くしたスサノオは高天原で乱暴を働き、その結果、アマテラスは天岩戸に隠れてしまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。オモイカネとアメノコヤネなど八百万の神々はアマテラスを岩戸から出す事に成功し、スサノオは高天原から追放された。
葦原中国に子のアメノオシホミミを降臨させることにし、天つ神を派遣した。葦原中国が平定され、いよいよアメノオシホミミが降臨することになったが、その間にニニギが生まれたので、孫に当たるニニギを降臨させた。


 以上が概略となるが、この古事記及び日本書紀に従って、考えを進めるにあたって、まずは記紀について知っておく必要があるだろう。

 古事記は西暦712年に元明天皇に献上された書物である。序文では天武天皇の命で稗田阿礼に口述させ、撰録を目指した。天武天皇の崩御後、太安万侶に撰録の完成を命じたのが元明天皇である。
 日本書紀は西暦720年5月に完成し、時の元正天皇に献上された。

 天武朝は古代史最大の戦乱ともいわれる「壬申の乱」後、開始する。
この戦を勝ち抜いたあと、新たな中央集権国家を確立することとなる。
律令制定、富本銭の鋳造、そして国家の正当性を証明するための歴史書の編纂を命じたというわけである。
このような経緯で記紀が編纂されることとなった。
古事記は国内向け、日本書紀は国外向けに編纂されたと言われている。
 
 ところで中国の歴史書というのは前王朝の史書を新しい王朝が編んでいた。例えば、日本で最も有名な中国の歴史書、三国志を編んだ著者は次の王朝、西晋の陳寿である。
そのようなわけだから、新しい王朝の都合のよい様に前王朝の悪事の誇張があるのだ。
 古事記と日本書紀においては事情が異なり、神代、つまりアマテラスから古事記においては推古天皇、日本書紀においては持統天皇まで続いていることを証明するための書物である。
また、自らの王朝について編纂しているわけだから、中国の歴史書より、自らに都合よく編まれている可能性があるというわけである。

 このような中で、どの程度、記紀を信用してよいのか。

 記紀の編纂に影響を及ぼした人物といえば、編纂を命じた天武天皇の他に、その皇后であった持統天皇があげられるであろう。

 天武天皇の死後、2年3か月の葬礼を経て即位したのは持統天皇であった。
天武天皇の死の時点では天武天皇と持統天皇の一粒種であった草壁皇子が次の天皇と目されていたようだが、病を得て薨去してしまう。
持統天皇は草壁皇子の息子である、後の文武天皇への皇位継承を望んだようだが、まだ幼かったために、持統天皇自身が即位することとなった。
決して、他の男子皇族の中に皇位継承者に該当するものがいなかったわけではない。
天武天皇の息子はほかにもおり、その中には母の身分が十分高い(天智天皇皇女)皇子もいたし、母の身分は低かったものの太政大臣にまで上り詰めた皇子もいる。
ただ、持統天皇の子は一人しかいなかったが、持統天皇は自分の子孫に皇位継承させることに拘泥したということだ。

 このような背景のなか編まれた歴史書ならば、持統天皇の思惑に左右されていたとしても不思議でない。

 なにせ、女性天皇からその孫に皇位がうつるという少し変則的な皇位継承の構図は記紀のあのエピソードと同じだ。
 そう天孫降臨である。

 持統天皇が孫への皇位継承のために天孫降臨のエピソードを書き換えた(そのように指示した)という説はいろいろな本で見かけたからには多くの方が支持していると思うし、私個人も説得力があると考えている。

 この説の延長として、アマテラスについての記述も書き換えられていると考えられる。
持統天皇によって都合よく。

 よって、記紀以前のアマテラス像を解き明かすことでアマテラスとは何者かを考えることができるだろう。
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by Allegro-nontroppo | 2013-10-31 01:20 | アマテラスと伊勢
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