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伊勢旅行記

先日、伊勢に行った。
神宮遷宮の次の週のことである。
少し遅くなったが、旅行記を記しておこうと思う。
すでに記憶が怪しいところがあるが。

訪問地
①二見興玉神社
②豊受大神宮(外宮)
③豊受大神宮別宮 月夜見宮
④猿田彦神社
⑤皇大神宮(内宮)
⑥皇大神宮別宮 月讀宮
⑦皇大神宮別宮 倭姫宮
⑧皇大神宮別宮 滝原宮
⑨皇大神宮別宮 伊雑宮
⑩松下社
⑪皇大神宮所管社 御塩殿神社
⑫朝熊岳金剛證寺
⑬豊受大神宮摂社 草奈伎神社、大間国生神社

伊勢神宮は②~③、⑤~⑨、⑪、⑬である。
一日目①~④、二日目⑤~⑦、三日目⑧~⑨。

その他
式年遷宮記念 せんぐう館
神宮徴古館
斎宮歴史博物館

伊勢神宮参拝順としては正しくないはずだ。
効率優先で参拝したためである。
そもそも参拝順序は諸説あるようで、何が本当なのかはっきりしないし、神宮全125社を回ったわけでもないから、順序無視などという以前の問題かもしれない。
順序についてはいずれ調べてみたいと思う。

詳細は続きを読むに記す。



①二見興玉神社
 御祭神は猿田彦大神、宇迦御魂大神、綿津見大神。
古来、伊勢神宮に参拝する者は、その前に二見浦で禊を行うのが慣わしであったということで最初に訪れた。
夫婦岩の間から差し昇る「日の大神」と、夫婦岩の沖合700mの海中に鎮まる猿田彦大神縁りの霊石と伝えられる「興玉神石」を拝する神社である。
伊勢の阿邪訶の海で漁をしていた時に比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死んだという猿田彦のエピソードを思い出した。

②豊受大神宮(外宮)
 主祭神は豊受大御神、相殿神御伴神三座として、東に一座、西に二座。
外宮先祭に従い、訪れた。あいにくの雨であったが、多くの人々で賑わっていた。
外宮深くに足をすすめていくごとにその荘厳さ、圧倒的な目に見えぬ力を感じた。
千年以上積み重ねた祈りの力はやはり軽いものではないのだ。

③豊受大神宮別宮 月夜見宮
 祭神は月夜見尊、月夜見尊荒御魂。
ツクヨミは三貴神の一人でアマテラスとスサノオの兄弟神であるが、その二人に比べて影が薄い。
アマテラスやスサノオのエピソードの数に比べて、ツクヨミについては無いに等しいのだ。
ツクヨミを祀る神社の筆頭がこの月夜見宮と皇大神宮別宮 月読宮であり、独立した神社でない。
 こちらには他に2、3組の参拝者がいるのみで、豊受大神宮とは比べものにならないくらい静かであった。
 それにしても、なぜ豊受大神宮の別宮として、月夜見宮が存在するのだろう。
私の知る限りではトヨウケビメとツクヨミには接点がないはずだが。

④猿田彦神社
 祭神は、猿田彦大神と、その子孫の大田命。
敷地内には天宇受売命を御祭神とする佐瑠女神社も鎮座している。
猿田彦と一緒に子孫の大田命を祀り、宮司は宇治土公という姓で大田命の子孫という、猿田彦ファミリーの神社だ。
鈴鹿市の椿大神社も猿田彦、大田命の直系と主張しているそうだが、どちらにしても猿田彦は子孫に祀られていると言うことには変わりない。
大神神社の例(子孫が祖神を祀る)と同じであろうか。
 正殿の裏にはご神田があったが、こちらを見学していた際、連れが「神社のすぐそばのご神田を初めてみた」と言っていた。
確かに、私も見たことがなかった。
近年、いくつかの神社をまわったが、ご神田を見かけた記憶はない。
御田植祭など耳にするから、そのような祭祀が執り行われている神社には確実にご神田が存在するのだろうが、各神社に必須というわけではないと思う。

⑤皇大神宮(内宮)
 主祭神は天照坐皇大御神、相殿神は天手力男神と万幡豊秋津姫命。
AM4:30にホテルを出発。
宇治橋前に到着時はまだ暗い。
AM5:00に開門と同時に宇治橋を渡る。
宇治橋あたりは明かりがあったが参道にはほとんどないため、参道を逸れていないか心配しながら歩み続ける。
五十鈴川の御手洗を通りすぎそうになり、慌てて戻って清める。
神楽殿で御造営資金を奉納させていただく。
辿り着いた正宮でまず参拝。
夜が明けるまで正宮前でそのまま過ごす。
太陽は姿を見せなかったものの、白々と空が明らんでくるのをバックにした正宮を呆然と眺めてしまった。
(そういえばこの日の天気予報は雨であったが、内宮ではなんとか降られずに済んだ。
これも天照大御神のご神徳のおかげか?)
夜が明けきってから外玉垣内で参拝(特別参拝)させていただいた。
正宮前でもその厳かな空気を感じ取れたが、外玉垣内は一層の神聖な何かを感じる。
ただただ恐縮してしまった。
その後、ぼんやりしながら境内をぐるりとめぐり、内宮を後にした。
ずいぶん、早い時間に参拝させていただいたが、これは正解だったと思う。
もっと遅い時間になれば参拝客であふれかえって、あの静寂さはなかっただろう。
 余談だが、この後、おかげ横丁にて名物の赤福を食した。
なんと神宮開門に合わせて開店しているのだ。
実は赤福は初めてだったのだが、甘さがほどよく、すっかり虜になってしまった。
普段甘いものを買わない私が伊勢からの帰路で購入してしまった。
賞味期限がかなり短いというのに食べきってしまったのは自分でも驚きだ。

⑥皇大神宮別宮 月讀宮
 御祭神は東から西へ順に(2)月讀尊荒御魂、(1)月讀尊、(3)伊弉諾尊、(4)伊弉冉尊。
参拝は(1)から(4)へと順に行う。
別宮の中で4つの宮が並んでいるのをみたのはここが初めてだったが、少し奇妙に感じられた。同敷地に祀られる神々が同列に祀られているのは珍しいように感じられたのだ。宇佐神宮の本殿を思い出す。と思ってもう一度よく眺めてみると、月讀尊の宮が一番大きいようだった。
また、この伊勢の旅では伊弉諾尊と伊弉冉尊を参拝したのはここのみだ。
記紀の三貴神の誕生部分を読む限り、伊弉冉尊は彼らの親ではないようにみうけられるが、月讀尊と並んで祀られている。
まあ、素戔嗚が伊弉冉尊を母と呼び、黄泉の国に行きたいと訴えるエピソードもあることだから、神々には人には分かり得ない繋がりがあるのかもしれない。

⑦皇大神宮別宮 倭姫宮
 御祭神は倭姫命
倭姫命は、第11代垂仁天皇の皇女で、第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の後を継いで「御杖代」として数国を経て、現在の地に皇大神宮をご創建された。
そののち、年中の祭りを定め、神田、神領を選定し、奉仕者の職掌を定め、斎戒や祓の法を示し、神宮所属の宮社を定められるなど、神宮の祭祀と経営の規模を確立された。
 このように大きなご功績をお遺しになられた命を祀る倭姫宮は、神宮司庁と宇治山田市(現在の伊勢市)のお宮の創立を請願により、大正10年1月4日、皇大神宮別宮として当宮のご創立が許可され、同12年11月5日にご鎮座祭が執り行われた。
 倭姫宮は上のような事情により別宮の中で創立が最も新しいのである。
 こちらでは神職の方にいろいろなお話を聞かせて頂いた。一番、面白かったお話は神宮正宮の写真撮影についてである。豊受大神宮と皇大神宮共に正宮正面より撮影することは許可されていないが、その時、頂戴した広報誌にはそれが掲載されていた。この理由というのは写された正宮が遷宮前の新しい正宮だったのである。神様がいらっしゃらない正宮ならば真正面より撮影してもよいということらしい。

⑧皇大神宮別宮 滝原宮
 御祭神は天照坐皇大御神御魂。
ただし敷地内には瀧原宮及び瀧原竝宮が並んで鎮座している。
昔から「大神の遙宮」といわれている。
この地は所謂「元伊勢」、つまり現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所である。
 ここはほかの別宮より敷地が広く感じられた。
また、禊のための川があり、皇大神宮の鎮座地には川が必須条件であったことも伺わせられた。

⑨皇大神宮別宮 伊雑宮
 御祭神は天照坐皇大御神御魂。
こちらも瀧原宮と同様、「大神の遙宮」といわれている。御田植式が有名。
すぐ近くに神宮のご神田があり、鳥居をくぐって、神田に入れるようになっていた。
(もちろん一般人の立ち入りは不可であろう)

⑩松下社
 御祭神は素戔嗚尊、菅原道真、不詳一座。
加木牛頭天王社、御船社、蘇民の森とも言われている。また創立は不詳。
二見や伊勢では一年中しめ飾りを飾っているそうだ。
実際にこの旅行中にもかなりの商店や家に飾られているのを見かけた。
このしめ飾りには蘇民将来子孫の木札が取り付けられている。
つまり、この地は蘇民将来(民間信仰)が盛んといえる。
不思議なのはまず、神宮125社中スサノオを祀る社が一つもないということだ。
記紀神話を考えれば、アマテラスにスサノオが忌避されてしまうのは仕方がないとも
考えられるが、庶民(ここでは各時代の伊勢、二見にお住まいの方を庶民と記載させていただく)の信仰の在り方とのズレが生じている。
ここでの蘇民将来の牛頭天王がスサノオではないとも考えられるが、二見、伊勢での蘇民将来信仰の中心であるこの松下社のご祭神が牛頭天王ではなく、素戔嗚であることから間違いなく、スサノオを信仰していると言えるだろう。

⑪皇大神宮所管社 御塩殿神社
 祭神は御塩殿鎮守神。
こちらでは神宮の神事で使われる塩を作る設備を備えている。
神社の裏は海であり、眺めも良かった。
ここまで、神宮の社をいくつも回ってきたが、他と比べて社の形が違う。
鳥居は神明鳥居だが、ほとんどの建物は高床式でないし、千木や鰹木もない。
製塩過程では汲み入れなど力仕事も多いだろうし、火も使うはずだから、作業に適さない高床式は採用されなかったということだろう。
 社殿は神明造であった。

⑫朝熊岳金剛證寺
 御本尊は福威智満虚空蔵大菩薩。
草創欽明天皇の頃、暁台上人によって開かれ、平安時代には弘法大師によって堂宇が建立され、密教修業の大道場として隆盛を極めた。
その後応永年間(1394~1248年頃)に鎌倉建長寺開山大覚禅師の法孫である仏地禅師(東岳文いく禅師)が法燈の衰微を嘆き再興、以来禅寺に改められ、現在は臨済宗南禅寺派、別格本山である。
伊勢神宮の鬼門を守る寺として、神宮の奥の院ともいわれ「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と伊勢音頭の一節にも唄われ、参宮する人々は当寺に参詣するのが常であったということで参拝させて頂いた。
明星堂は伊勢神宮の鬼門除けのために明星天子を祀り鎮護している。
雨宝堂は神仏習合の神様、雨宝童子尊を祀る。この神像は、大日如来の化身である天照大神が日向国に降り立った十六才の御姿を、弘法大師が感得して刻まれたと言い伝えられている。
この寺は神宮の神仏習合の跡をのこしている。あの弘法大師が神仏習合の思想を持っていたというのが日本人らしくて面白い。
 奥の院には現在の檀家さんの卒塔婆が祀られているが、この卒塔婆はかなり巨大であった。私の家では卒塔婆を祀る習慣がないので(一応、仏式の葬式を上げるし、戒名もつけるし、法事もやる)一般的な卒塔婆のサイズはよく分からないが、それにしても、大きいものでは私の身長の3~4倍はかるくあるのではないかと思われたし、厚みも20cmくらいあってもおかしくなさそうだった。
 夕方であったためもあるだろうが木々に囲まれ、静かで、死者の眠る場所としてふさわしい場所に思えた。

⑬豊受大神宮摂社 草奈伎神社、大間国生神社
 御祭神は御剣仗神、大若子命と乙若子命。
同敷地内に両神社が鎮座している。
豊受大神宮関連の神社の参拝数が少なかったため、最後に訪れた。
草奈伎神社は各祭典とも必ず神職が参向して奉仕するとのこと。
大間国生神社の祭神はこの地方(今もこのあたりを大間広という)の国土生成の神二座であり、皇大神宮ご鎮座に大功があった神々で、度会氏の祖である。御垣内の向かって右が大間社(祭神・大若子命)で、左が国生社(祭神・乙若子命)といわれている。
たまたま、訪れた神社であったが、なかなか神宮鎮座について重要な神社でありそうだ。


その他
せんぐう館
 豊受大神宮参拝後に立ち寄った。
今回の遷宮を記念して設立されたとのことでまだ新しい。
せんぐう館というだけあって、遷宮についての展示がほとんどであった。
ここで一番、興味をひいたのは、豊受大神宮 殿舎配置模型と正宮の模型だ。
どれだけ眺めても飽きない。
ぜひとも写真撮影をしたかったが禁止であったため、残念であった。

神宮徴古館
 倭姫宮参拝後に立ち寄った
こちらは明治時代に設立されたとのことで、歴史を感じる建物である。
展示物としては神宮の宝物がメインとなっているようであったが、ここで一番私の興味を引いたのはやはり皇大神宮 殿舎配置模型であった。
ここでも写真撮影は不許可であったため撮影できず、残念。

斎宮歴史博物館
 神宮徴古館の後に訪れた。
時間節約のため、タクシーで訪れたが、運転手さんも訪れたことがないとおっしゃっていた。
博物館は思ったより広く、また展示も充実していた。
私個人の意見としては、そもそも、斎宮をメインに扱った本はあまりないので、変に資料を探すよりもここを訪れる方がまとまった知識を得られるし、わかりやすいと思う。
ただ、おすすめであるが、神宮からは少し離れているので、神宮参拝後に立ち寄るのは難しいだろう。
by Allegro-nontroppo | 2013-10-27 17:16 | 旅行記
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