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「顔」のいろいろ@センチュリーミュージアム

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センチュリーミュージアムに「顔のいろいろ」を見に行ってきた.

先月のことであるが,8月の美術館は展示入れ替え等が多く,小さな美術館はやっていない所も多かったので,そんな中,面白いものを鑑賞させていただき,感謝である.

以下、感想である.


聖徳太子孝養像

聖徳太子孝養像の一種で十六歳の姿ということである.

なんとなく、孝養像は太子のもっと幼い頃の姿と思っていたので、驚いた.

装飾性の強い豪奢な装束や台座・香炉の形から室町時代の作と推測されているという.


柿本人麿像 狩野探幽筆・道寛親王賛

「梅の花それとも見えず久かたのあまぎる雪のなべてふれれば」の賛は古今和歌集や拾遺和歌集から取られたもので、知らない歌であった.

江戸時代の作ということであるが,歌聖人麿が江戸時代になっても尊崇されていたことが窺える.

江戸時代というと俳句が主流のように感じるが,和歌の上達を願う人々もたくさんいたのだろう.


柿本人麻呂自画賛 近衛信尹筆

「ほのぼのとあかしの浦の旦霧にしまかくれ行ふねをしぞおもふ」の賛は古今和歌集におさめられているそうだ.

柿本人麻呂というと壮大な挽歌のイメージがあるので,五七五七七の形式の和歌が代表歌というと奇妙な気がする.

しかし,今作品の桃山時代や江戸時代は壮大な挽歌のおさめられた万葉集より古今和歌集の方が格上とされていたのだから和歌の上達を願うための人麻呂像には古今和歌集の賛が相応しいのだろう.


藤原鎌足像

藤原氏初祖として追善供養の仏事で使われるために制作されたものと推測されているらしい.

私の想像する鎌足と画家の想像する鎌足はイメージが似ているように思う.

ということは,みんなの想像する鎌足像ということだろう.


桓武天皇像

桓武天皇を神格化し、礼拝の対象として描き比叡山延暦寺で執り行われている天皇講と称する桓武天皇への謝恩の法会のような行事で用いられたと推測されているようだ.

桓武天皇は最澄や比叡山とのつながりが深かったのだなと再認識した.

桓武天皇は怨霊に悩まされた天皇でもあったが,そのあたりも神格化への要素の一つだったりするのだろうか.


束帯天神像

菅原道真は笏を上から押さえつける姿で描かれているのをいくつか見かけたことがあるが,これは讒言による失脚に対する怒りを表しているのだという.

確かに他の人で同じような笏の使い方は見たことがない.

人によってそれぞれ経歴を表すポーズがあるのが面白い.


三迹画像

鎌倉時代の作で左上に「筆峯三迹」と記されており,嵯峨天皇,弘法大師空海,菅原道真が座している.

嵯峨天皇と空海は「三筆」とも言われているのは知っていたのだが,この「三筆」が貝原益軒によるものというのは初耳であった.

鎌倉時代には能書家として,この三人が代表であったのだろう.


三跡像 冷泉為恭筆

小野道風,藤原佐理,藤原行成の三跡が描かれているが,こちらも貝原益軒によって挙げられた三人ということで,描かれたのも幕末である.


三十六歌仙絵巻 伝冷泉為相賛

歌人を左右に分けた歌合形式で描かれている.

三十六歌仙絵巻もいろいろな形式があるなと思わせてくれる.


三十六歌仙色紙帖

畳の上で几帳のかげに座する斎宮女御が展示されており,三十六歌仙の中で一番豪奢な歌仙を見ることができて,うれしく思う.

斎宮女御くらいは描き方で見分けられるようになってきたなと自分の成長も感じられてうれしい.


歌仙絵(小野小町) 良純親王賛

こちらは小野小町ということであるが,説明書きを見ないと分からなかった.

小野小町といえば後ろ姿というイメージなのだが….

なよやかな姿で「あはれなるやうにて,つよからず」という,古今和歌集仮名序を思い起こさせられる.


三十六歌仙色紙 角倉素庵賛

こちらでも斎宮女御を見ることができた.

やはり,几帳のかげに座っている.


嵯峨本伊勢物語・下

「狩の使」の一場面部分が展示されていた.

伊勢物語をなぜそう呼ぶのか,書名の由来としては一番重要な場面である「狩の使」が伊勢を舞台としているからというが,本当にそうなのか疑問はつきない.


新版絵入伊勢物語

上巻冒頭には在原業平,下巻冒頭には伊勢の肖像画が載せられている.

かつては,伊勢物語の作者が業平で,伊勢が増補したと考えられていたそうで,つまりそれが題名の由来と考えられていたのだろう.

なぜ,題名の由来が不明確で、しかも伝わっていないのだろう.


伊勢物語歌かるた

伊勢物語のカルタというものもあったのだと驚きである.

燕子花の場面がないかと探してはみたが見つからなかった.


北野天神縁起絵巻断簡

北野天神縁起絵巻では菅原是善の邸宅に幼児の姿で現れて,養育されたことになっているらしい.

展示場面は是善のそばで講説の序文を書く道真の姿で,出仕前の道真を描いた一場面というものを初めてみることができた.


藤原定家像 伝土佐光起筆

和歌の大家・藤原定家を描いているが,なんとなく伝わっている定家のイメージよりふっくらした面立ちに見える.


以上.

センチュリーミュージアムは未だにどのような美術館かつかめていないのだが,面白そうな展覧会も多く,日本の古い芸術作品もかなり所蔵していらっしゃるようで,今後の展覧会にも期待である.


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by Allegro-nontroppo | 2016-09-04 22:09 | 博物館

雷丘の宮殿 ー万葉集 巻第3の235番歌からー

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24回 万葉古代学東京講座 「雷丘の上にあるもの」を受講した.

前回の万葉古代学東京講座はこちら→

講師は竹本晃氏である.

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竹本氏は先月の夕星万葉を担当されていた方である.

竹本氏の夕星万葉はこちら→


概要

万葉集・巻第3の235番歌

天皇,雷の岳に出でませる時に,柿本朝臣人麻呂が作る歌一首

大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも・・・①

右,或本に云はく,「忍壁皇子に献れるなり」といふ.

その歌に曰く,

大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます・・・② 


左注をそのまま読めば雷丘には忍壁皇子の宮があったと読み取れる.

「日本書紀」朱鳥元年(6867月戌申条によれば,忍壁皇子の宮と民部省は火事の際に影響があるほど近い距離にあったことが分かる.

雷丘に近い石神遺跡から民官関係の木簡がまとまって出土していることから位置関係としては問題ないように思われる.

ところが雷丘の上の発掘調査によれば中世に古代の遺構が削平されてしまったとは言え,横穴式石室が数基検出されたのみで宮殿に関するような遺物は検出されなかった.

そのため,雷丘の上に忍壁皇子の宮はなかった可能性が高いが仮宮ならばあった可能性があると竹本氏は考えておられるそうだ.


雷丘東方遺跡から墨書土器が出土している.

この中に「城下」と墨書された土器が発見されている.

この土器が発見された井戸の掘削時期は8世紀末~9世紀初頭に近い時期と考えられる.

さらに「城下」土器は井戸の上部から発見されているがこの井戸は9世紀後半に埋められたことから捨てられた時期も同時期と考えられる.

墨書土器は遺跡内で完結するので「城下」郡を示したものではないと考えられることから雷丘東方遺跡から見上げたところに「■城」と呼ばれる地があったと考えられる.

つまり,7世紀末~8世紀初に雷丘に殯宮が築かれ,すぐ解体後,語り継がれて地名となったのではないかという推測が成り立つという.

この「■城」と呼ばれる地名が古代に名づけられた名称によるものであるとすれば,雷丘の地形から判断するに殯宮(あらきのみや)ではないかということだ.

※「大殯の時」「大荒城乃時」(巻第3の441番歌)


殯宮が雷丘の上に築かれていたのならば万葉集から判断するに忍壁皇子のものということになる.

ここで問題となってくるのが,「皇子皇女の殯宮は墳墓建設予定地に設置される」という身﨑壽説と「天皇以外は京内に殯を営むことは禁じられた」という上野誠説である.

まず,身﨑壽説については,その説の中で例に挙げられている明日香皇女・高市皇子・日並皇子墳墓の位置は未確定であるし,殯宮の地についても論争があるので従うことはできない.

また,上野誠説もその根拠は「大宝喪葬令皇都条」によるものであるが,誤解があるものと思われる.

つまり,墳墓の京内への築造のみ禁止されているのであって,いずれ撤去される殯宮は禁止されていないのではないかということである.

この条文が作成されたところの意図を上野氏は死祓を避けるためと考えたために殯宮を京内では禁止という風にとっている.

しかし,穢れはどう解除するかにかかっているものであるため,喪葬令皇都条に死穢は無関係ということで,竹本氏は雷丘に殯宮があっても問題ないと考えておられるとのことだ.


最後に今回の万葉歌二首については両歌を同じような意味で考えるのは間違いであるという.

つまり,「大君は神にしませば」と「雷」という共通性によるもので歌意に基づく配置ではないということだ.

②の歌は通説では「天雲に隠れている雷丘に」と解釈されている.

しかし,「雲隠」には高貴な人の死を敬避する表現法である.

これは万葉集巻第3の416番歌,441番歌,204番歌そして205番歌にも同様の例がある.

また,この②の歌「雲隠」は近世に訓読を「くもかくる」に改められたが,そもそもの写本では「くもかくれ」(紀州本万葉集)であった.

従って②の歌は

(忍壁)親王は神でいらっしゃいますので,お亡くなりになって,雷丘には殯宮をお造りなさっていらっしゃいます

という意味になる.

この歌は本来は挽歌であるが巻第3の雑歌の冒頭235歌の参考として編者が見つけたため,今の位置に置かれることになったと思われる.


以上が今回の講演内容であった.

なかなか興味深いお話であった.

まだまだ,万葉歌にも解釈を再考すべき歌が残っていそうである.

私個人の意見としては忍壁皇子以外の時代の雷丘についてもフォローがあったらよかったなと思った.

まあ,これは個人で調べるべき類のものであろうが.


追記

「天皇以外は京内に殯を営むことは禁じられた」という上野誠説であるが,私は全文を読んでいないので否定するのもおこがましいがメモとして考えを記載しておく.

Wikipediaによれば(HPはこちら→

死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること

とある.

そうであれば天皇以外は京内に殯宮を設置するなというのはおかしな話に思える.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-23 20:20 | 講演会,シンポジウムなど