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僧形の皇子たちーいざ,吉野へー

僧形の皇子たちーいざ,吉野へーの講座を受講してきた.

講師は松田度氏(大淀町教育委員会)であった.

以下,概略である.

飛鳥時代,吉野へ逃れてきた僧形の皇子

・古人大兄皇子(吉野太子)

6456月 乙巳の変(大化の改新)

・大海人皇子(天武天皇)

6726月 壬申の乱


吉野

原吉野:飛鳥と吉野川に挟まれた地域

豊かな原野…はるか遠くに高見山,大和と伊勢の境

土田遺跡…大河吉野を見下ろす

古代庭園の発見:蛇行溝≒庭園…8世紀後半ごろに埋没

曲水の宴を思わせる郡家に接する庭園


地元の支援者

・吉野首(土田遺跡付近)

・国栖(宮瀧遺跡)

・阿太鵜飼


◎古人大兄皇子

6456月「吉野山」へ

12日 乙巳の変

   古人大兄皇子 法興寺(飛鳥寺)にて出家

13日 蘇我蝦夷 館に火を放ち自殺

14日 軽皇子(孝徳天皇)即位

6459月(もしくは11月)

古人大兄皇子は謀反の罪で一族とともに殺害

怨念が雲となって漂う


古人大兄皇子が吉野太子と呼ばれた理由

彼が吉野山へ行った理由

吉野山≒古人大兄皇子の「宮(皇子宮)」


二つの吉野山

→現 吉野山

→古 吉野山(奈良時代以前)


吉野・世尊寺

古 吉野山

比曽(蘇)寺…最古の山寺

沈水香の観音

吉野最古の木造彫刻

推古朝…淡路に漂着した香木

7世紀の瓦(吉野ではここだけで発見)

640年代 古人大兄皇子と蘇我氏ゆかりの仏匠たち…比曽寺,百済寺,山田寺

トヌカイト遺跡…比曽寺付属施設→吉野で初めて古代の硯出土

寺と工房

飛鳥寺と飛鳥池遺跡(造寺司)

比曽寺とトヌカイト

→渡来系氏族

比曽寺は吉野の中の飛鳥→渡来系工人:東漢氏

縁起絵巻

上巻 飛鳥時代の仏教伝来

・欽明14年(553年)5月 高脚浜に流れ着いた霊木

茅渟の海 光を放ちながら樟が流れ着く…放光樟で日本最古の造仏

池辺直→蘇我馬子の腹心

今,吉野寺に放光する樟の仏なり

下巻 復興譚


吉野と豊浦

日本霊異記 上 第5

飛鳥の豊浦堂安置日本最古の阿弥陀仏:吉野寺の本尊

→蘇我の法灯

蘇我大臣の法灯を吉野へ

蘇我の法灯をうけつぐため世俗を捨てる(僧形)

孝徳新政権⇔皇子宮(古・吉野山)へこもる

・蘇我の法灯の象徴を遷座

・支援者を古・吉野へ集める

蘇我と吉野:蘇我氏ゆかりの財産,工人…


◎吉野を継ぐ者

古人大兄皇子の死後…

蘇我氏 山田大臣(石川麻呂)…6493月 石川麻呂の変

山田寺(石川麻呂発願)にて一族とともに自害

蘇我本宗家(倉家)の内部分裂

ポスト石川麻呂をめぐって

・赤兄,果安:近江・大友皇子派

・安麻呂,鵜野讃良皇女:大海人皇子派


672年 壬申の乱

大海人皇子

1017

吉野入りを決意,天智天皇に許される

近江宮で出家,袈裟を着る

1019

吉野に出立,大臣らが送る

夕べ 飛鳥嶋宮で御す


吉野入りの実態

・舎人ら数十人の大集団

・鵜野讃良皇女,草壁皇子は嶋宮で合流

・行幸に近い


鵜野讃良皇女→天武天皇がやってくる下準備,吉野にいた?


忍坂皇家の血をひく:大海人皇子

蘇我倉家,忍坂皇家の血をひくハイブリットな存在:鵜野讃良皇女

→蘇我氏の法灯を受け継ぐ

大海人皇子:支援者・鵜野讃良皇女の懐に飛び込んだ→古人大兄皇子の古地へやってきた


720年 日本書紀

・持統天皇自身が自分のストーリーを

・消えない蘇我氏の血

・女帝の記憶 残したいもの,消したいもの

→倭姫=持統天皇と同等の立場(血統上も):記録があまりない


蘇我氏

→日本で最初に仏教を擁護した特別な血統


大化の改新

孝徳天皇 

蘇我蝦夷,入鹿:仏教の大事な部分を継承

→本当ならば聖徳太子とすべき(日本書紀は蘇我氏をけなしているのに)


持統天皇

30回以上も吉野へ

・比曽寺に立ち寄っている(宿泊)

・目指すは宮滝

→王権の神・大穴持(神祀りの宮)をうつす(三輪山から出雲へ)


聖武天皇も同じようなルートをたどった

疫病を抑えるためシャーマンとなる

九つの頭をもつ竜が吉野にいた

→失敗,二度と来ない…廃れていった


吉野という地の特殊性はいろんなところで語られているが,蘇我氏と結びつけるという発想は私の中では新しいものであった.

持統天皇行幸問題も,神祀りという従来の意見に大穴持を絡めて説明されており,この部分だけでももっと詳しくお話しを伺いたいと思えた.

また,いずれの機会を楽しみにしたい.


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by Allegro-nontroppo | 2016-07-31 19:26 | 講演会,シンポジウムなど

吉野と嵐山の縁 ~後嵯峨/亀山上皇と吉野と嵐山

連続講演「伝えたい世界遺産「吉野」の魅力」(第6回) 「吉野と嵐山の縁 ~後嵯峨/亀山上皇と吉野と嵐山」を受講した.

講師は金峯山寺宗務総長 田中利典氏である.

田中氏といえば,先日の金峯山寺の夜感拝観(本ブログ記事はこちら→吉野への旅一日目 ~金峯山寺蔵王堂~)にて素晴らしい声明を取り仕切っておられた.
下は先日訪れたの蔵王堂である.下は先日訪れた蔵王堂である.

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では,以下が概要となる.

吉野を訪れた人々

―神武天皇,古人大兄皇子,斉明天皇,大海人皇子,持統天皇,役行者,空海,聖宝(空海の孫弟子にあたる),宇多上皇と菅原道真(もっとも古い天満宮がある),藤原道長,白河上皇,西行,源義経と静御前(冬の四日間),後醍醐天皇と護良親王,豊臣秀吉と徳川家康,本居宣長,芭蕉など

朝廷から逃げる場所であり神仙の地であった.


役行者と蔵王権現と桜

修験道の開祖役行者については続日本紀に記載がある.

蔵王権現は神と仏の融合である(元々,仏様と神様をわけていなかった).

権は仮,現は現れるということでアバターである(本地と権現).

吉野の桜は蔵王権現のご神木・山桜である.


吉野山と嵐山の縁

①後嵯峨天皇と仙洞亀山殿

・院は西郊亀山の麓に御所を立て亀山殿と名付,常にわたらせ給ふ.大井河 嵐の山に向ひて桟敷を造て,向の山には吉野山の桜を移し植られたり.自然の風流,求めさるに眼を養ふ.まことに昔より名をえたる勝地と見たり. ~『五代帝王記』

・亀山の仙洞(亀山殿)に吉野山の桜をあまた移し植ゑ侍りしが 花の咲けるをみて

「春ことに 思ひやられし 三吉野の 花はけふこそ 宿に咲けれ」 ~『続古今和歌集』第二 後嵯峨上皇御製

・吉野山の地名も移植(吉野山下千本に嵐山,ほおづき尾→保津峡など)

②後醍醐天皇と南朝(吉野朝)(13331348年)


大塔で相談し,吉水院(一番偉いお坊さんが入る)で南朝をたてる.
下は先日訪れた吉水神社(吉水院)である(本ブログ記事はこちら→吉野への旅 二日目 ~大峰奥駈道と吉野山~)

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③仙洞亀山殿(天龍寺)と後醍醐天皇

亀山上皇は後醍醐天皇と同じ大覚寺統であり,さらに南朝の地,吉野と縁の深い仙洞亀山殿跡に後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が建立した(方丈の北側に亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある).
下は今年1月に訪れた天龍寺である.

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現在

京都・嵐山に蔵王堂有り(案内人がいないといけない).

嵐山もみじまつり→蔵王権現への感謝

1015日…南朝の天皇を弔うため,金峯山寺は毎年正式参拝している.


以上が講座の概要である.

今年,一月に天龍寺を訪れている(本ブログ記事はこちら→飛鳥・京都旅行記 2日目 )のだが,お話にあったようなことを知らず,漫然と天龍寺の美しさなど眺めてきてしまった.

思いつきで出かけたようなところがあるのだが,このようなことがあるときちんと調べて出かけなければならないと改めて思う.


金峯山寺蔵王堂の夜感拝観(本ブログ記事はこちら→吉野への旅一日目 ~金峯山寺蔵王堂~)でも田中利典氏のお話があったのだが,記事にしていなかった.

ここにその時のお話とまとめて記載しておく.

御嶽山は修験道と縁の深い山である(吉野山…金の御嶽から名称がきている).

また火山性微動が観測された蔵王山は蔵王権現を祀ったことでその名がついたのである.

それだけでなく東日本大震災や打ち続く豪雨など,近年,自然災害が多発しているように思われる.

しかし,そもそも日本は自然災害の多い国であり,これまで日本人も当然,自然災害にあいつづけてきたのである.

ところが,明治以降,西洋化に伴い,一つの価値観が正しく,良いものとしてきた.

この考え方は限界に達しているのではないだろうか.

それぞれの風土を大切にする,本来の日本の考え方を取り戻すべきである.


多様な価値観を認めるというのは日本人の世界に誇れるものの一つであったが,現在はそれが少々行き過ぎて,我々本来の価値観を見失ってしまっていることは常々,私も感じるところではある.

グローバリゼーションは結構であるものの,日本人固有の価値観について見なおすことも重要であろう.


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by Allegro-nontroppo | 2014-12-14 19:18 | 講演会,シンポジウムなど

藤原道長の金峯山詣

え連続講演 「伝えたい 世界遺産『吉野』の魅力」(第4回)「藤原道長の金峯山詣」を受講した.

講師は中東洋行氏(吉野町教育委員会事務局社会教育課)である.


1
10181126日 土御門殿

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

・誇っている歌であるが,準備していたものではない(道長が言っている).

・事前に藤原実資に和してほしいと依頼していた.


2
.道長が生きた時代

源氏物語のような世界は女性視点であり,政治(男性の昼の世界)に関しては反映されておらず,女性は男性の昼間をよく知らなかった.

男性または政治の世界では

・天皇の儀式は重要なものであり,複雑な手順を覚えている必要があった.

・深夜(10時,11時)までの会議・仕事が続くこともあった→場合によってはそのまま翌日の仕事へ(超多忙生活)

労働基準法などなく,仕事を選ぶ自由もない,身分が保障され続けるわけでない.

一族の繁栄のため,少しでも身分をあげるため,努力し続ける,貴族は登りつめるしかない.

手を抜けばすぐに負けてしまう世界であった.


食生活は貴族でも質素(仏教の影響で肉魚を避ける傾向)であるが,一般庶民に比べれば恵まれている.

世界中で平均気温が低く,飢饉の起こりやすい時代であった.


田舎(農民)はぼろぼろの家で,体にも肉がつかないような生活であった.


平安京であっても,衛星環境はあまりよくない(平安京は平らな土地であるため,下水用のどぶさらいが必要).

病気の大流行(パンデミック)や栄養不足に陥りやすい状態.

死体が道に転がっている.

台風対策もできない.

神仏を信じるしかない→呪いも日常茶飯事.

阿弥陀信仰が流行りはじめる.

→道長の死後,末法の世がおとずれる.


3
.道長,その波乱万丈な半生

・公卿でない父のもと,脇役に生まれる(966年兼家の五男・末っ子).傍流の家.

道長が生まれたころ,実資は蔵人頭.最初に会ったときは道長を呼びすてにしていたほどだったが….

姉 詮子が天皇に嫁ぐ.

→父 兼家が宮中に入ることができるようになる.

→道長26才(父は絶世期)は出世コースへ.

流行病でライバルがどんどん亡くなる.

→道長30才 右大臣(人が足りなかった).

病気になった時の日勤は「本人もここまで登れると思っていなかった」というプレッシャーが感じられる.

・娘の彰子が女御となる(時に齢,12才).

→甥の娘(定子…天皇からの寵愛をうけている)に第一皇子が生まれ,また姉(詮子)も亡くなってしまう.

→定子は亡くなるが,天皇は定子の妹を寵愛する.


4
.道長×吉野のコラボレーション

・彰子の立后と頼通の元服,そして道長の焦り.

平安時代,吉野は憧れの地→末法の世界を救う弥勒下生の地として中国にも名声が届くほど(役行者).

人々を救う仏様とそこで修行するお坊様がいる場所だから弥勒下生の地として信じられていた.

死んだ後にいい所に行けるように,彰子に子が産まれるように(子守信仰…水分神社)善行を積む…弥勒のために経文を埋めておく(末法の世で仏教が忘れ去られたときに掘り起こして弥勒の助けとなるように,仏様の教えが戻りますように).

1週間かけて金峯山寺へ(非常に神聖な地であり,世俗にまみれた人間が金峯山に入ると神仏を怒らせてしまうので,事前に23ヶ月,お浄めをしてからでないと山には入れない).

82日出発,810日 山上ヶ岳(16001700m級)の頂上で埋経(霧がかかっていて景色を見ることができなかった).

道長は大方,歩いて登ったという説が優勢(修験者と同じルートを通ったようである).

金峯山寺の前身寺院(野際)で宿泊している.

道長の経筒が非常に良好な状態で発見される.

→「陶製の経筒に入っていた?」または「小さな塔に経筒及び経文を入れていた?(平安時代の層から飾りなど一部が発見されている)」という説はあるが検証のしようがない.

経筒にはお供の名前や埋経の瞬間までなどを詳しく書かれている.


5
.そして,あの歌に至る

吉野行から1年後,赤ちゃんが生まれる(第一皇子には後見人がいない).

彰子の妹も別の天皇家の人に嫁がせる.

道長が実資を呼びつけて,必ず答えるように依頼する.

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

とても素晴らしくて歌で答えることはできないと,みんなで数回繰り返すことにした.


努力はし続けたが,どうしようもない(娘に子供が産まれるように)部分で吉野の霊験にすがった.


道長が苦労して登りつめていったという部分は知っていたが,吉野との関わりの部分についてはあまり知らなかったので非常に参考になった.


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by Allegro-nontroppo | 2014-10-04 19:39 | 講演会,シンポジウムなど

何故,吉野が「聖地」となったのか?

奈良学ナイトレッスン 平成26年度 第4夜「わたしたちの聖地、吉野」を受講した.

本年の奈良学ナイトレッスンの当ブログ記事はこちら→ 第1夜 第2夜 第3夜

講師は吉野歴史資料館館長の池田淳氏である.


聖地吉野の誕生

よき人のよしとよく見てよしと言ひし 芳野よく見よよき人よく見 「万葉集」巻第1・27


仙柘枝の歌三首

あられふり吉志美が嶽を険しみと草とりはなち妹が手を取る

右の一首は,或いは云わく,吉野の人味稲の柘枝仙媛に与へし歌なりといへり.但し,柘枝伝を見るに,この歌あることなし  「万葉集」巻第3・385


この夕柘のさ枝の流れ来ば梁は打たずて取らずかもあらむ    「万葉集」巻第3・386


古に梁打つ人の無かりせば此処にもあらまし柘の枝はも    「万葉集」巻第3・387

右の一首は,若宮年魚麻呂の作
よき人:雄略天皇説がある

あられふり:「肥前国風土記逸文」の杵島山条に「あられふる杵島が岳を峻しみと草採りかねて妹が手を取る」とあり,「あられふり吉志美…」と類似している.

歌垣の折の歌として広く流布していたと考えられている.


七言.吉野川に遊ぶ.一首  紀男人

萬丈の崇厳削成して秀で,千尋の素濤逆析して流る

鍾池越潭の跡を訪はまく欲り,留連す美稲が槎に逢ひし洲に


萬丈の崇厳:万丈もある高い厳

千尋:非常に深い谷

逆折:さかまき曲る

槎:浮き木.ここでは柘枝のこと.


上記の歌にもあるように吉野は天女が舞い降りるのにふさわしい場所と認識されていた.


突然の変化―吉野川の蛇行―

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上は吉野川周辺地図.
①は大名持神社の所在地.


「大和めくりの記」(貝原益軒)や「神々の乱心」(松本清張)に記されているように大和上市あたりを境に吉野川は上流では急激な曲りで蛇行し,山地に挟まれた渓谷を流れているが,下流では大河のようにまっすぐ流れ,河原も形成されている.


この変化の地点に鎮座しているのが「大名持神社」である.

大名持神社は「延喜式」に記載される式内であり,吉野郡十座 大五座のうちの一社で名神でもある.

「三代実録」貞観元年(859)正月27日条によれば,京畿内七道諸神進階及新叙(中略)大和国従一位大己貴神正一位とある.

大神神社(大和国一宮)の大物主が正一位を授けられるのは,大己貴神より僅かに遅れ貞観元年21日,大和国内で大己貴神以前に正一位の神階を授けられているのは春日社のみ.


【参考】吉野郡十座 第五座 小五座

吉野水分神社 大 月次新嘗

吉野山口神社 大 月次新嘗

大名持神社 名神 大 月次相嘗新嘗

丹生川上神社 名神 大 月次新嘗 ※上社と中社のどちらか判明していない.

金峰神社 名神 大 月次相嘗新嘗

高桙神社 鍬

川上鹿塩神社 鍬

伊波多神社

波宝神社 鍬

比売神社


余談:大名持神社から大汝宮へ

室町時代の「大頭入衆日記」では,「応永七年カノエタツ九月四日座衆百姓評定云,天満神主殿大汝神主殿両人座敷事…」と記載されている.

「造営方仕日記」寛正4912日条でも,「大汝宮番匠ケン永代」とある.


読み方が「おおなもち」→「おおなんじ」に変化している.

おおなんじの意味は当時の日葡辞書より「危険な」「厄介な事」.

やっかいな宮,危険な宮と言う意味にとれる.

大蛇行のある川は非常に危険である.

大名持神社は蛇行の変化点に鎮座していることから,危険が始まる場所ということになる.

事実,この地点の吉野川には「南無阿弥陀仏」という名号が刻まれている.

つまり,大己貴神は「曲がり角の神」ということになる.


また,大名持神社の社前に潮生淵があったということが「大和志」や「大和名所図会」に記載されている.

周辺でかなり強い炭酸温泉が湧いていることから,この潮渕でも同様であったことが想像できる.

この潮渕の水を使い,明日香村や橿原では神事の前に禊を行っていた.

また,酒田では潮渕の石を使い湯立て神事を行っていた.

何故聖地に見えるのか?

七言.吉野の作 一首 多治比廣成

高嶺嵯峨奇勢多く,長河渺漫廻流を作す.

鍾池超譚凡類を異にし,美稲が仙に逢ひしは洛州に同じ.


長河:吉野川

渺漫:限りなく広い様子

鍾池と超譚:鍾池は古代中国の呉にあった池.超譚は越にあった深い淵

洛州に同じ:魏の曹植が落水の辺で仙女に出会ったという故事

大意:吉野の山々は険しくそばだって変化に富み,吉野川は限りなくとうとうと流れ,あるいは曲がりくねって流れている.呉の鍾池や越の淵を思わせる風景はありふれた平凡なものではなく,美稲が美しい仙女に逢ったという故事は,魏の曹植(曹操の五男.唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者)が洛水のほとりで仙女とであったという話と同じではないか.


つまり,飛鳥京から来た人々にとって,全く違う景観であり,自分の住む世界と違うことから「神仙境」と認識された.


吉野の位置

今国樔土毛献る日に,歌訖りて即ち口を撃ち仰ぎ咲ふは,蓋し上古の遣則なり.(中略)其の土は,京より東南,山を隔てて吉野河の上の居り.峯嶮しく谷深くして、道路狹く巘し.故に京に遠からずと雖も,本より来朝ること希なり. 「日本書紀」応神天皇1910月条


上記にあるように,京より遠くないところに,京とは異なる景観があったことが「吉野=神仙境=聖地」とされた理由であったろうと思われる.


以上が今回の講演内容であった.

何故,吉野が聖地となったか?という部分については深く述べられた本はあまりないので,非常に興味深かった.

しかし,内容に満足したかというとそれは別問題である.

例えば,神仙境といだけで大海人皇子が天智天皇のもとから逃れて吉野にくるものだろうか?

また,持統天皇が何十回も行幸するだろうか?

理由の一つにはなるかもしれないが,核心がつけていないように思える.

今回の講演を元にもっと他の観点から吉野を考察する必要がありそうである.


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by Allegro-nontroppo | 2014-08-05 19:16 | 講演会,シンポジウムなど

役行者以前の「吉野」の歴史と信仰に迫る

連続講演「伝えたい 世界遺産「吉野」の魅力」 第2回 天武・持統両天皇と神仙郷吉野に参加してきた.

ちなみに先月,第1回 入門!古事記・吉野・神武東征に参加した際の記事はこちら→

今回の講師は田中岳良氏である.

田中氏は総本山金峯山寺奥駈奉行ということであの有名な大峰奥駈修行を毎年なさっているとのことだ.

本講演が始まる前には田中氏も参加なさっておられた奥駈修行のビデオが会場で流されていたが,とんでもない崖や巨岩を上っていく様子をみて修行のすさまじさを感じた.


さて,本講演の概要である.

天武・持統両天皇と吉野の関わりは以下のとおりである.

♦壬申の乱前夜・・・吉野隠棲(671年)

隠棲に纏わる伝説

・鷹塚伝説

・国栖の翁と犬塚伝説(犬を飼わない,御霊神社には狛犬がいない)

・袖振山と天人伝説(五節の舞の起源)

・夢見の桜伝説(桜本坊)

♦決起・吉野出陣・・・壬申の乱勃発(672年)

♦吉野の盟約(吉野の誓い)(679年)

♦持統天皇の度重なる吉野行幸

御在位中に31度も吉野宮へ

→田中氏はこの度重なる吉野行幸の理由として,即位の背景と天皇たり得る能力に対する不満回避のためではないかと推測されているそうだ.

つまり,具体的には

・草壁皇子の逝去と強引な即位

・天候を司るシャーマン的な能力欠如

と考えられるそうだ.

このようなことから,朝廷の不満が高まり,吉野水分峰への祈願につながったと考えられる.

飛鳥浄御原宮や藤原宮のあった奈良盆地は河川といえば「大和川」しかないため,水に苦労した地域である.

(現在でもため池が多い)

一方で吉野水分峰(現在は青根ヶ峰)は四方に水源を持っているため,神奈備山とされており,農耕を左右したり,天候変化への期待から産土信仰が生まれたようである.


万葉集でも

み芳野の青根が峰の 苔蓆 誰か織りけむ 経緯無しに

神さぶる磐根こごしき み芳野の 水分山をみれば かなしも

と詠まれている.

持統天皇の時代の吉野水分神社は現在の位置とは別の場所に鎮座しており,その近くには修験道の起源に関係する「広野千軒跡」もある.


水分信仰から修験道へと変化した理由としては,都の変遷や吉野の扱いが大きく影響していると田中氏はおっしゃっておられた.

田中氏の資料をほとんど同じように作成させて頂いた.
少々ずれている部分もあるが御勘弁願いたい.

都の変遷   吉  野     水分信仰(自然崇拝)

飛鳥京    吉野宮      水分神(水分峰)

                ↓  →→→→→→→→産土信仰

藤原京                 ←自然崇拝    

                ↓  ←仏教,道教    ↓

平城京    吉野離宮           ←陰陽道     

    (芳野監)       ↓  →→→→→→→→子授け信仰

                  ←雑密      

             原始的修験道         ↓

平安京     廃絶            ←密教      

                  ↓  ←←←←←←←← 子守宮

                 修験道

以上が本講演の概略である.

「吉野」といえば修験道でその開祖は役行者という情報はよく聞くが,それ以前の吉野の歴史や信仰についてはあまり聞いたことがなかったので非常にためになった.

いずれ,吉野を訪れる際にはこの講演で挙げられたような場所を訪れたいものである.

次回の連続公演「伝えたい 世界遺産「吉野」の魅力」を楽しみにしたい.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-18 20:11 | 講演会,シンポジウムなど

「吉野」の歴史 ー古事記・神武東征ー

伝えたい 世界遺産「吉野」の魅力 第1回を聴講に行った.

この講座は全10回のシリーズものである.

「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されてから10年ということで,「吉野大峰世界遺産登録10周年記念事業協議会」主催のもと行われていく.

今回は初回ということで,「入門!古事記・吉野・神武東征」というテーマであった.

講師は南都銀行 公務・地域活力創造部の鉄田憲男氏である.

奈良の銀行にはおもしろい部署があるものである.

鉄田氏はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」専務理事も務めていらっしゃるそうだ.

講座内容はまず,タイトルにもある「入門!」の部分から始まった.

「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成施設のうち,奈良県内では「吉野山」「吉野水分神社」「金峰神社」「金峰山寺」「吉水神社」「大峰山寺」「大峰奥駈道(玉置神社を含む)」「熊野参詣道小辺道」である.

大峰奥駈道…役行者が8世紀に開いたとされる.吉野から熊野まで山上ヶ岳,弥山,八経ヶ岳など2000m近い山々が連なる.

「吉野」は奈良県面積の56%を占める.(五條市を加えると64%)

吉野川流域の「口吉野」と熊野川流域の「奥吉野」に分かれるが,古くは「奥吉野」は吉野に含まれなかった.

歴史的には以下の通り.

・古事記 神武東征伝に登場.

 「吉野河の河尻」(五條市),「吉野の首等の祖」(川上村),「吉野の国巣の祖」(吉野町国栖)

・吉野町宮滝に吉野離宮(斉明・天武・持統・聖武)

・吉野の盟約(天武朝)

・源義経の郎党や静御前は吉野の山に潜入

・吉野には平家の落人伝説あり

・後醍醐天皇の皇子・護良親王が吉野山で倒幕の兵を挙げる.京で建武の新政を開くが,南北朝時代には吉野に移り,南朝成立.南朝の中心は吉野山.


後南朝について

「後南朝…「南北朝合一」のあと,南朝再建を図った子孫や遺臣による南朝復興運動

「禁闕の変…後花園天皇の暗殺を企て,御所に侵入.暗殺は未遂に終わったものの,三種の神器のうち,剣と勾玉を奪う.後に幕府軍により変の首謀者たちが討たれ,剣は奪い返されるが,勾玉は持ち去られたまま.

「長禄の変…赤松家の残党らが,臣従すると見せかけて襲い,南朝の末裔の自天王・忠義王兄弟を殺害,勾玉を奪回

南朝の宮方に仕えた郷士の血族「筋目の者」等は現在でも25日に「南朝様」をお祭りし,将軍の宮の御所跡である神の谷の金剛寺において朝拝の式を挙げている.

この儀式では筋目の者が16の菊の紋のついた裃姿で知事代理や郡長等より上座につく.

神武東征について

・八咫烏の後をいでますと吉野河の河尻に到った

・国つ神・井氷鹿(尾生ふる人)→吉野の首等が祖

・国つ神・石押分之子(尾生ふる人)→吉野の国栖が祖

※国栖奏は現在でも,大嘗祭(皇居)や諸節会で奏上

白檮原の宮について

・「畝火の白檮原の宮に坐して天の下治めたまひき」

・橿原市久米町説と御所市柏原説あり

・御所市柏原説…本居宣長,白洲正子,鳥越憲三郎など.


以上のような内容であった.

古事記,日本書紀周辺や役行者などについては,既に知っている内容も多かったが,南北朝あたりは知らないことも多く興味深かった.

後南朝の話などはなかなか聞けないものである.

ここで私見を二つほど記しておきたい.


一つ目は「吉野」という地名である.

この説明で「狩りに適した良い野」とあったが本当だろうか.

元明天皇の御代,和銅6年「風土記編纂」の命と併せて,好字を用いた二字で地名を表すように勅が出ている(諸国郡郷著好字令).

その際に替えられてしまった地名ではないだろうか.

吉野はその歴史を鑑みるに,敗残者を多く迎えた地と言ってもよいと思うが,本当に「良い地」であったならば,敗残者が落ち延びていける状況になかったと思うのだ.

一般の人々が住むのに適していなかったので,敗残者たちが落ち延びていくことのできた地と考える方が妥当ではないか.

また,古事記にも登場した吉野の国栖が祖は,漢字で見る分には当たり障りないが,耳で聞くのではあまりに印象が悪い名前である.

この「国栖」についても同様の勅で変更された漢字だと推測すれば,吉野一帯が良い地名ではなかったと考えられるだろう.

私が推測するに「吉野」はその昔,「葦野」または「悪し野」と書かれていたのではないだろうか.

また,「国栖」は「屑」ではなかっただろうか.
吉野という地方は歴史的敗残者の集まる地であり,それ故,歴史的勝者たちが敗残者を貶めるために屈辱的な名前を与えたのかもしれない。


私見の二つ目に進みたい.

白檮原の宮についてである.

橿原市久米町説と御所市柏原説があるとのことであるが,これはそう難しいことではないと思う.

神武天皇はその実在性が疑われている人物の一人である.

巷間では欠史八代といって第二代天皇・綏靖天皇から第九代天皇は開化天皇は実在せず,後世になって創作されたと考えられているが,初代・神武天皇だってあやしいものである.

私が思うに,神武天皇は崇神天皇以前の皇族たちをモデルにして作り上げられた人物であるのではないかと思うのだ.

そのモデルの中の人物が「神倭伊波礼琵古命」,「神日本磐余彦尊」,「若御毛沼命」,「狹野尊」,「彦火火出見」たちではなかろうか.

この説は何も私が初めて述べたものではない.

有名な説の一つだと思う.

もし,この説が正しいのならば,都や即位の地がいくつあってもおかしくない.

当時の天皇(大王)は絶対唯一であったわけではなく,他の豪族の中で一つとびぬけた程度の力であったろうから,そう簡単に1箇所に都を定めることができるほどの権力はまだ,なかったことは想像できる.

大和では新参者の皇族たちは戦を続けながら転々としていたであろうし,そもそも,飛鳥時代くらいまでは,天皇の代替わりのたびに宮殿の場所が変わっていたのだから,神武天皇のモデルとなった人物たちがそれぞれ別の場所を都としていたとしても不思議はない.

よって,橿原市久米町説と御所市柏原説,どちらも正しいといえるのではないかと思う.


何にせよ,今回の講座は非常に興味深いものであった.

この講座のシリーズの第2回は既に予約済みであるから,非常に楽しみである.



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by Allegro-nontroppo | 2014-06-24 19:06 | 講演会,シンポジウムなど