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第10回~12回 夕星万葉

10回~12回の夕星万葉を受講した.

本年から持統天皇代に入っていく.

以下に万葉集を読んでいく際に気を付けたいポイントをメモしておく.



第10回 「『万葉集』巻1(28番歌)持統天皇代①」

講師:小倉 久美子 氏(奈良県立万葉文化館主任研究員)


天皇の御製歌
二八番歌

春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香久山


・季節感をあらわしたもっとも古い歌

・天の○○とつく山は香久山だけ.天から降ってきた山(伊予国風土記逸文).当時,死は神聖なものであったので,香久山にたくさんの屍があった(四二八番歌)

・衣を乾した理由としては「衣替え」説,「神事につかう衣」説などあり



第11回 「『万葉集』巻1(2933番歌)持統天皇代②」

講師:大谷 歩 氏(奈良県立万葉文化館 主任技師)


近江の荒れたる都を過ぎし時に,柿本朝臣人麿の作れる歌
二九番歌

玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御世ゆ(或は云はく,宮ゆ)生れましし 神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを(或は云はく,めしける) 天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え(或は云はく,空みつ 大和を置きて あをによし 奈良山越えて) いかさまに 思ほしめせか(或は云はく、おもほしけめか) 天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめけむ 天皇の 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる(或は云はく,霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる) ももしきの大宮処 見れば悲しも(或は云はく,見ればさぶしも)


反歌

三〇番歌

ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ

三一番歌

ささなみの志賀の(一は云はく,比良の)大わだ淀むとも昔の人にまた逢はめやも(一は云はく、逢はむと思へや)


高市古人の近江の旧都を感傷して作れる歌(或る書に云はく,高市連黒人といへり)
三二番歌
古の人にわれあれやささなみの故き京を見れば悲しき

三三番歌
ささなみの国つ御神の心さびて荒れたる京見れば悲しも

・柿本人麻呂の一番最初の歌で「近江荒都歌」ともよばれる

・戦乱で滅びた都を思う歌は中国にたくさんあるが,日本では近江朝がはじめて

・現人神としての天武・持統天皇(日の運行,暦の掌握)

・「いかさまに思ほしめせか」で感情が挿入されている

・生命力あふれる春草と荒都の対比

・古の人:近江朝世代の人?,新しい時代に迎合できない

・近江朝も戦勝祈願したに違いないが,神がうらさびてしまった



第12回 「『万葉集』巻1(3435番歌)持統天皇代③」

講師:井上 さやか 氏(奈良県立万葉文化館 主任研究員)


三四番歌

白波の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ(一は云はく,年は経にけむ)


三五番歌

これやこの大和にしてはわが恋ふる紀路にありといふ名に負ふ背ノ山


・三四番歌は有間皇子の挽歌を想起させる

・三四番歌の作者川島皇子は大津皇子の事件での密告者

・日本書紀は有間皇子に同情的(絞刑までのスピードが速い)

・日本書紀は大津皇子事件の際の大津皇子妃の死を中国の無実の謀反罪で亡くなった人の妃と同じ表現で記載している

・大化の改新の詔で畿内の南の境は背ノ山となった

・妹山との対比の背ノ山


毎回勉強になる講座である.

来年もぜひ受講したい.

(今年もまたやってほしいと思う)


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by Allegro-nontroppo | 2016-07-10 22:26 | 講演会,シンポジウムなど

大和三山 男か女か ー万葉集 巻一 十三~十五番歌からー

夕星万葉 「万葉集」巻一 斉明天皇代③を受講した.

講師は奈良県立万葉文化館主任研究員 小倉久美子氏である.

この講座はシリーズもので,前回の受講記事はこちらである.

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中大兄(近江宮に天の下知らしめしし天皇)の三山の歌一首


十三番歌

香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬をあらそふらしき


反歌

十四番歌

香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原


十五番歌

わたつみの豊旗雲に入日射し今夜の月夜さやけかりこそ


「右の一首の歌は,今案ふるに反歌に似ず.ただ,旧本にこの歌を以ちて反歌に載す.故に今なほこの次に載す.」また紀に曰はく「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に天皇を立てて皇太子となす」といへり.


今回も
雑歌(旅の歌など公の場で歌われた歌)である.

タイトルや左注によれば,中大兄皇子(後の天智天皇)が皇太子時代に作った歌である.


今回のタイトルでは「中大兄」となっており,「皇子」とは書かれていない.

「大兄」は皇位継承権の一番高い人につけられる名前とみられ,日本書紀 舒明天皇二年(六三0年)条にも例が見られる.

また,日本書紀 皇極天皇四年(六四五年)六月では「中大兄」となっており,「皇子」と書かれていないことが分かるので,今回のタイトルが特別な例というわけではない.


十三,十四,十五番歌は三山=大和三山の歌ということで,歌に詠みこまれているが,この三山の性別がそれぞれどちらなのか,まだはっきり分かっていないということである.


例えば十三番歌の「ををしと」の意味が「雄々しいと」であれば,香具山=女耳梨山=男畝火山=男となる.

この説は「萬葉集註釈(仙覚抄)」(鎌倉時代)からの説である.


また,「ををしと」の意味が「を惜しと」であれば,香具山=男耳梨山=男畝火山=女となる.

これは折口信夫の説だ.

「ををしと」の原文は「雄男志等」であるので一見,仙覚の説が正しいように思えるが,万葉集巻第六・九三五番歌にも「雄」を助詞として使用している例がある.

また,万葉集巻第五・八九三番歌十・二三0三番歌では十三番歌と同じように助詞の「を」の後に形容詞が来ている.

さらに,万葉集巻八・一五八一番歌には「惜し」の例も見られる.

以上のことを折口信夫は自説の根拠としている.


このような説がある中で小倉氏によれば,十三番歌で「かくにあるらし」とあるために,すでに流布されている物語があったと考えられることから,歌の読み方のみを議論しても仕方ないと考えておられるそうだ.

そこで大和三山が出てくる当時の物語を調べてみると「播磨国風土記」が挙げられる.

「播磨国風土記」揖保郡では三山が「相闘ふ」とあるため,香具山=男耳梨山=男畝火山=男となる.

「住吉大社神代記」では,為奈川と武庫川の女神二柱が霊男神人を巡って争う話がある.

これを参考にすれば,香具山=女耳梨山=女畝火山=男となる.

以上四つの説のうち有力なのは仙覚説折口説ではあるらしい.


反歌は長歌で言い足りなかったことや長歌の内容を圧縮した内容の歌にあたるという.


十四番歌は「あひし」「争う」という意味ととれば,
香具山=男耳梨山=男となる.

「あひし」「会う」と言う意味にとれば,香具山=女耳梨山=男となる.

この十四番歌もやはり性別は確定していないということだ.

ところで十四番歌にでてくる「印南国原」であるが,「播磨国風土記」揖保郡を参照している節があるらしい.

ただし,「印南国原」は当時の印南郡,賀古郡,明石郡周辺の海岸を指しているため,揖保郡とは位置がずれている.

中大兄皇子は斉明天皇の西征の際,播磨国「印南国原」沿岸を通って同行しているため,この時に詠んだ歌と思われる.

西征がうまくいくよう,播磨国風土記に登場する「阿菩の大神」への祈りをこめた歌である.


十五番歌は名句として知られている.

まず,「豊旗雲」「祥瑞」の一種で「慶雲」である.

「入日射し」の部分は「入日見し」ではないかという説もあるとのことである.

「入日射し」であれば,未来を願う意味になる.

「入日見し」であれば既に過去となっているので,真っ暗な中でこの歌を詠ったことになる.

また「さやけかりこそ」の部分もいろいろな説があるらしい.

月は「明る」「清む」とは言わない.

最も多いのが「照」でその他に「さやけ」「きよく照る」がある.

「さやけ」=はっきりとで「きよく照る」=清浄なという意味があるが,どちらにしても歌の本意は大きく変わらない.


左注についてであるが,ここでは十五番歌は大和三山について詠ったものではないために反歌でないのではないかという編者の意見が記載されている.旧本には反歌として載せられていたようである.


追記としては,「香具山」は平安時代には「高山」と記載されていた.

これは「高」を中国では「カウ」「カク」と読んでいたようで,「高山」と書いて「カグヤマ」と読んでいたようである.


以上が講座の内容であったが,万葉集は奥が深いとしみじみ感じさせられた.

と同時に独学でどこまで勉強できるか心配である.

とにかく万葉集を読むところから始めるか.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-25 19:56 | 講演会,シンポジウムなど

雷丘の宮殿 ー万葉集 巻第3の235番歌からー

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24回 万葉古代学東京講座 「雷丘の上にあるもの」を受講した.

前回の万葉古代学東京講座はこちら→

講師は竹本晃氏である.

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竹本氏は先月の夕星万葉を担当されていた方である.

竹本氏の夕星万葉はこちら→


概要

万葉集・巻第3の235番歌

天皇,雷の岳に出でませる時に,柿本朝臣人麻呂が作る歌一首

大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも・・・①

右,或本に云はく,「忍壁皇子に献れるなり」といふ.

その歌に曰く,

大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます・・・② 


左注をそのまま読めば雷丘には忍壁皇子の宮があったと読み取れる.

「日本書紀」朱鳥元年(6867月戌申条によれば,忍壁皇子の宮と民部省は火事の際に影響があるほど近い距離にあったことが分かる.

雷丘に近い石神遺跡から民官関係の木簡がまとまって出土していることから位置関係としては問題ないように思われる.

ところが雷丘の上の発掘調査によれば中世に古代の遺構が削平されてしまったとは言え,横穴式石室が数基検出されたのみで宮殿に関するような遺物は検出されなかった.

そのため,雷丘の上に忍壁皇子の宮はなかった可能性が高いが仮宮ならばあった可能性があると竹本氏は考えておられるそうだ.


雷丘東方遺跡から墨書土器が出土している.

この中に「城下」と墨書された土器が発見されている.

この土器が発見された井戸の掘削時期は8世紀末~9世紀初頭に近い時期と考えられる.

さらに「城下」土器は井戸の上部から発見されているがこの井戸は9世紀後半に埋められたことから捨てられた時期も同時期と考えられる.

墨書土器は遺跡内で完結するので「城下」郡を示したものではないと考えられることから雷丘東方遺跡から見上げたところに「■城」と呼ばれる地があったと考えられる.

つまり,7世紀末~8世紀初に雷丘に殯宮が築かれ,すぐ解体後,語り継がれて地名となったのではないかという推測が成り立つという.

この「■城」と呼ばれる地名が古代に名づけられた名称によるものであるとすれば,雷丘の地形から判断するに殯宮(あらきのみや)ではないかということだ.

※「大殯の時」「大荒城乃時」(巻第3の441番歌)


殯宮が雷丘の上に築かれていたのならば万葉集から判断するに忍壁皇子のものということになる.

ここで問題となってくるのが,「皇子皇女の殯宮は墳墓建設予定地に設置される」という身﨑壽説と「天皇以外は京内に殯を営むことは禁じられた」という上野誠説である.

まず,身﨑壽説については,その説の中で例に挙げられている明日香皇女・高市皇子・日並皇子墳墓の位置は未確定であるし,殯宮の地についても論争があるので従うことはできない.

また,上野誠説もその根拠は「大宝喪葬令皇都条」によるものであるが,誤解があるものと思われる.

つまり,墳墓の京内への築造のみ禁止されているのであって,いずれ撤去される殯宮は禁止されていないのではないかということである.

この条文が作成されたところの意図を上野氏は死祓を避けるためと考えたために殯宮を京内では禁止という風にとっている.

しかし,穢れはどう解除するかにかかっているものであるため,喪葬令皇都条に死穢は無関係ということで,竹本氏は雷丘に殯宮があっても問題ないと考えておられるとのことだ.


最後に今回の万葉歌二首については両歌を同じような意味で考えるのは間違いであるという.

つまり,「大君は神にしませば」と「雷」という共通性によるもので歌意に基づく配置ではないということだ.

②の歌は通説では「天雲に隠れている雷丘に」と解釈されている.

しかし,「雲隠」には高貴な人の死を敬避する表現法である.

これは万葉集巻第3の416番歌,441番歌,204番歌そして205番歌にも同様の例がある.

また,この②の歌「雲隠」は近世に訓読を「くもかくる」に改められたが,そもそもの写本では「くもかくれ」(紀州本万葉集)であった.

従って②の歌は

(忍壁)親王は神でいらっしゃいますので,お亡くなりになって,雷丘には殯宮をお造りなさっていらっしゃいます

という意味になる.

この歌は本来は挽歌であるが巻第3の雑歌の冒頭235歌の参考として編者が見つけたため,今の位置に置かれることになったと思われる.


以上が今回の講演内容であった.

なかなか興味深いお話であった.

まだまだ,万葉歌にも解釈を再考すべき歌が残っていそうである.

私個人の意見としては忍壁皇子以外の時代の雷丘についてもフォローがあったらよかったなと思った.

まあ,これは個人で調べるべき類のものであろうが.


追記

「天皇以外は京内に殯を営むことは禁じられた」という上野誠説であるが,私は全文を読んでいないので否定するのもおこがましいがメモとして考えを記載しておく.

Wikipediaによれば(HPはこちら→

死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること

とある.

そうであれば天皇以外は京内に殯宮を設置するなというのはおかしな話に思える.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-23 20:20 | 講演会,シンポジウムなど

万葉集 九~十二番歌

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夕星万葉に参加した.

演題は「万葉集」巻一 斉明天皇代② 9~12番歌である.

講師は「奈良県立万葉文化館 主任研究員」の竹本晃氏である.

九番歌

紀の温泉に幸しし時に,額田王の作れる歌

莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣わが背子がい立たせりけむ厳橿が本

莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣我が愛しい背の君がお立ちになっていただろう,あの神聖な橿の木の下.

まず,題詞から,斉明天皇の紀伊行幸(6581015日~翌年1月3日)の際に額田王が詠んだ歌ということが分かる(これは1012番歌も同様である).

額田王は鏡王の娘で,大海人皇子(後の天武天皇)との間に十市皇女(大友皇子妃)を生んだ女性であると日本書紀に記されている.

「皇女」という敬称は天皇の娘に与えれれるものであり,孫以上に天皇から血筋が離れてしまえば,敬称は「王」となる.

明確に女性であるということを記したいときには「姫王」と記す.

以上のことから,額田王は何世代も前の天皇の血は引いていることになる.


余談ではあるが万葉集の9194489番歌の作者である鏡王女との関係にいろいろな説があるとのことだ.

問題は当時「王女」という単語はなかったということである.

しかし,「皇女」の略としては使用されていたが「鏡皇女」なる人物はいなかったということである.

「鏡王女」は「鏡女王」の誤写であるという説や「鏡王の娘」という意味という説があるという.

もしも,「鏡王女」が「鏡王の娘」という意味であるならば,「鏡王女」=「額田王」の可能性もあるということらしい.


九番歌に話を戻す.

この歌の解釈については30種類以上の説があるということだが,それ故に定説となっているものもない.


莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣

夕月のあふきてとひし(仙覚)

紀の国の山越えてゆけ(賀茂真淵)

香久山の国見さやけみ(荒木田久老)

静まりし浦浪さわく(澤瀉久考)

などがあるということだが,強引な部分も多いようだ.


後半部については以下の通りである.

わが背子立たせりけむ厳橿が本

背子→親族を含む,親しい男性に向けての呼称.作者が額田王であることを踏まえると,大海人皇子または鏡王か?

→接頭語:なくてもよい.語調を整える.

→尊敬

→「神聖な」の意

厳橿が本→日本書紀にも見られる表現.

     是を以ちて,倭姫命,天照大神を以ちて磯城の厳橿が本に鎮め坐せて祀る.


十~十二番歌

中皇命の,紀の温泉に往しし時の御歌


君が代もわが代も知るや磐代の岡の草根をいざ結びてな

あなたの命も私の命も支配していることよ.この磐代の岡の草を,さあ結びましょう.


わが背子は仮廬作らす草無くは小松が下の草を刈さね

いとしいあの方が一夜の宿りを作っていらっしゃる.葺草がなかったら,小松の下の草をお刈りなさいな.


わが欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉そ拾わぬ

私のみたいと思っていた野島は,見せてくださいました.しかし,まだ,海の底深い阿胡根の浦の珠は拾っておりません.


或る歌に云はく,わが欲りし子島は見しを


右は,山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに曰はく「天皇の御製歌云々」といへり.


十~十二番歌は3首まとめて一つの題詞がつけられている.

この題詞にある「中皇命」が誰かということは分かってないということだ.

説としては以下の3人が挙げられている.

・間人皇女(孝徳天皇の皇后,中大兄皇子の妹)

・斉明天皇

 →取り次ぎ説.間人皇女説には及ばない.

・中大兄皇子

 →「命」…後皇子尊などと比較し,敬称とする.

 →「皇」…「長屋皇」,「聖徳皇」より,「中皇命(ナカツミコノミコト)」と読んだ.

 →大兄は皇位継承候補者の呼称ではないか(大兄制)…ナカツミコ(直木孝次郎説)

問題は十~十二番歌が女性作と思われること.

左注を根拠に代作説(斉明天皇)で乗り切る.

直木孝次郎説は新しいものなので今後,他の研究者たちの検討がなされるだろうとのことであった.


十番歌

君が代もわが代も磐代の岡の草根をいざ
君が代も
→君之齒母:年歯・年端→年齢→寿命

知る→支配する

磐代の岡の草根→有間皇子の歌にも似たようなフレーズがある.(有間皇子はこの行幸中に殺されている)

結び→記憶・標識・盟約などの心の結合の象徴として儀礼呪術の代表的行為とみなされた.

→今は漕ぎ出でな(8番歌)と同様.


この歌を間人皇后作とすると,君が代:斉明天皇,わが代:間人皇后となり,中大兄皇子作とすると,君が代:中大兄皇子,わが代:斉明天皇となるとのことだった.


十一番歌

わが背子仮廬作ら草無くは小松が下のを刈

わが背子→間人皇后作でも中大兄皇子作でもわが背子=中大兄皇子

仮廬→仮の宿り(建物).実際は宮殿である.

す,さ尊敬の助動詞.

屋根に葺く草.


行幸のために作られた仮廬(行宮)であるので,事前に完成していなければおかしい.

従って,実際の実景ではない.
(行宮は解体はするが,木材などはそのまま置いておくとのこと)

「小松が下の草」が繁茂している様子をみて詠んだ?


十二番歌

わが野島は見つ底深き阿胡根の浦のそ拾わ

欲り→欲る:今は欲すに変化した.見たいと思うの意味.

→過去助動詞.

→使役の助動詞.

→真珠.巻第133318歌に紀の国の鰒珠が出てくることから.当時の産地として有名なのは伊勢や伊豆(木簡から).

→打消の助動詞.


或る歌に云はく,わが欲りし子島は見しを

→似た歌に関する注記


三首まとめての左注

右は,山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに曰はく「天皇の御製歌云々」といへり.

大夫→敬称

類聚歌林→中身は全く分かっておらず,万葉集では巻1,29の全9例に引用されている.

正倉院文書の中の歌林がこれにあたるならば全7巻.

題詞と左注で作者が異なっている.

このような例は万葉集でよく見られる.


以上が今回の講義内容である.

万葉集に興味が出てきたところであったので,非常に参考になった.

また,次回も楽しみである.
なお,この講座で使用される訳や注釈は特に注意がない限りは小学館のものを採用しているとのことである.


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by Allegro-nontroppo | 2014-06-17 19:04 | 講演会,シンポジウムなど