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キトラ 最古の天文図のミステリー by コズミックフロントNEXT

コズミックフロントNEXTを初めて視聴した.

コズミックフロントの時代にはたまに視聴していたのだが….

2015716日は「キトラ 最古の天文図のミステリー」と題した放送であった.

これは見逃すわけにはいくまい.


星座の一部や模式的な天文図であればエジプトやギリシャなどにもっと古いものが残っているのだが,精緻な星図として世界で一番古いのはキトラ古墳の石室天井の天文図となる.

このキトラ古墳の天文図を初めて天文学者を交えて,考古学の知見+天文学の解析から解き明かそうというのが今回のプロジェクトということである.


キトラ古墳の天文図は星官68,350個もの星々が描かれており,星座でいうところのオリオン座,北斗七星などの星座も確認できる.

加えて,「黄道」や「内規」,「外規」,「天の赤道」が描かれていることも特徴である.

また,この天文図には下書きの跡があり,モデルとなる天文図を写した可能性が高い.

古代中国の宇宙観は「宇宙は球状」とされていた.

また,星官の中の二十八宿の内,距星と呼ばれる精密に観測される天空の座標があった.


ところで,地球の自転軸は一定ではなく回転している.

これを歳差運動といい,古代中国で既に発見されていたという.

この距星と歳差運動から二人の天文学者がいつ頃の時代の空を写した天文図であるかを解析していた.

一人の天文学者写し間違いの少ないと思われる五つの星から384年ごろと推定していた.

星官が400年ごろ,天文学者によってまとめられ,さらに歳差運動が発見されたのもこの頃であることから信憑性が高まる.

一方でもう一人の天文学者は28の距星のうちはっきりと確認できる25の距星の誤差が最も少なくなる空は紀元前80年であるとした.

渾天儀は紀元前200年頃には発明されており,高度な天文学が発達していたことから可能性はあるといえる.


次に観測された地点について解析していた.

宇宙を天球としたときの天の赤道と内規(観測地の緯度でかわる)から,北緯37~38度で観測された空ということになるらしい.

日本では福島で高句麗・漢城(今のソウル)も同じくらいの緯度にあたる.

ソウルでは天象列次分野之図という,古い天文図を写したとされる天文図が発見されているが,これは紀元前60年頃の中国で観測されたと推測される.

中国では太原・北魏の都市が同じ緯度にあたる.

北魏で天文観測を行っていたという直接的な証拠は残っていないが,北魏は自分たちの暦をもっていたので天文学が発達していたのは間違いないということらしい.

北緯37~38度で観測されたとするには問題となるのが老人星・カノープスがキトラ古墳の天文図に描かれている点である.

カノープスは北緯37~38度では観測できなかったと思われる.

つまり,もっと南の地で観測された可能性があるということだ.

400年ごろの北緯34度・洛陽や長安では先の天文学者の解析したふたつの星官の位置が一致するという(ただし他の星官では一致しない).


最後にどのように日本にやってきたのかについて推定されていた.

1247年蘇州天文図では星が全て同じ大きさに描かれているが,1395年朝鮮の天象列次分野之図ではカノープスやシリウスなど大きく描かれている星がキトラ古墳の天文図と同様,見受けられる.

従って,朝鮮半島の影響をうけたと考えられる.

元嘉暦(西暦400年ごろ)に朝鮮半島を経由して日本へ?.

飛鳥でも元嘉暦をもとにした暦を使っていた.

602年百済の僧が暦本を献上と日本書紀に記載有.

600年代天文現象に関する記事が飛躍的に増える.

628年日食,675年占星台設立など.

日本でも天文学が進歩してくる.


最終的な結論としては古くからデータをつぎ足しながら(観測の集積),完成したのがキトラ古墳の天文図でないかということであった.


個人的にはキトラ古墳の築造時期は700年前後と考えている(高松塚・キトラ古墳考② ー時期の特定ー).

そこからさかのぼること300年前に天文図は日本にやってきていたとなると,この天文図の位置づけがどのようなものであったのか気になる.

たとえば大王の象徴として飛鳥の宮殿に飾られていたとかありえないだろうか.

また,天文図や四神図,十二支図が同じ時期に日本に流入したかどうかも謎である.

同じ壁画古墳の高松塚古墳の人物群像は章懐太子,懿徳太子,永泰公主の陵墓の壁画と類似する点があるという.

彼らが亡くなったのは700年前後であることから,高松塚古墳の人物群像のモデルとなった何かもそれ以降に日本にやってきたのであろう.

そうなるとキトラ古墳の四神図や十二支図が単純に400年頃に天文図と一緒にやってきたとも言い切れないだろう.


いろいろ考えさせられると同時に,まだまだ解明できそうなことがたくさんありそうだと思わせてくれる番組であった.

再放送も予定されているようなので,もう一度見てみようかと思う.


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by Allegro-nontroppo | 2015-07-21 01:18 | 高松塚・キトラ古墳

高松塚・キトラ古墳孝⑦ ーキトラ古墳の被葬者ー

さて,高松塚・キトラ古墳考⑥で高松塚古墳の被葬者は高市皇子と比定した.

今回はキトラ古墳の被葬者を比定したい.

まず,キトラ古墳の被葬者について,文化庁から下記のように発表されているようだ.


奈良県明日香村のキトラ古墳の石室で見つかった人骨や歯を詳しく鑑定した結果,被葬者は熟年(40~60歳代)の男性で,50代の可能性が最も高いことがわかった.

文化庁の委託を受けた奈良文化財研究所が昨年6月,石室にたまった土砂の中から約100片の人骨と,23本の歯を見つけた.

鑑定した片山一道・京大大学院教授(自然人類学)によると,骨はすねの部分の破片1点を除いてすべて頭骨で最大4センチ四方.
粉状に砕けたものも多かった.重複する部分はなく、被葬者は1人とみられる.

目の付近の骨が丸みを帯び,耳の後ろの骨が凸凹して頑丈なことなど男性の特徴が目立った.
頭骨は全体にがっちりしており,骨太の印象があるという.身長は推定できなかった.

歯は全体に大きめで,すり減り方や奥歯の根元に付着した石灰,頭骨の状態などから,50代の可能性が高いという.
右上の奥歯1本はかなりひどい虫歯だった.

朝日新聞記事より抜粋.


上記の記事から,被葬者は男性である可能性が高いようだ.

すでに男性と比定していた私の考え(副葬品に大刀があることから)を裏付けるものとなる.

また,50代の可能性が高いとのことだが,「黄泉の王」(梅原猛氏)より,歯からの年齢推定はその人物の食生活に左右されるため非常に難しいとのことであったので,頭骨の状態を考慮に入れているとは言え,とりあえずおいておきたい.


文化庁発表の鑑定結果から被葬者の頭骨が埋葬されていたことが分かる.

キトラ古墳の壁画は高松塚古墳の壁画のような四神を人為的に消されたり,星図などの金箔・銀箔を削り取られたような跡はないようである.

つまり,キトラ古墳における異常性は「古墳や石槨のサイズが小さいことのみ」と考えてよさそうだ.

よって,高松塚古墳の被葬者・高市皇子のように,この人物は女帝に殺された人物ではないと言えそうだ.

この観点から,高松塚・キトラ古墳孝④に挙げた皇子たちの中からさらに絞り込むことは難しそうである.

そこで,高松塚古墳の被葬者・高市皇子との比較で推定してみたい.


高松塚古墳とキトラ古墳それぞれのサイズを比較するとキトラ古墳の方が小さいことになる.

また,その出土した副葬品もキトラ古墳の方が劣る.

ということは,キトラ古墳の被葬者は高市皇子より身分の低い皇子ということになる.

この身分の上下はどのように解釈したらよいだろう.


それぞれの生母の位を順番に記してみると下記のような結果となる.

草壁皇子(生母:皇后)

弓削皇子(生母:妃)

高市皇子(生母:嬪)

忍壁皇子(生母:宮人)

磯城皇子(生母:宮人)

川島皇子(生母:宮人)


忍壁皇子は磯城皇子の同母兄であること,川島皇子は天智天皇を父にもつことから,生母が宮人の三人は上記の順番とした.


一歩踏み込みが足りないようである.

では,皇子たちの最終的な官位の高さで順番に記したらどうであろうか.

草壁皇子(皇太子)

高市皇子(太政大臣)

忍壁皇子(三品知太政官事)

磯城皇子(浄広壱?)

弓削皇子(浄広弐位)

川島皇子(浄大参)


皇子たちの官位の順番は上記のようになるだろう.

ここで気になるのは「知太政官事」という官位である.

Wikipediaには以下のように書かれている.

知太政官事とは「太政官の事を知る」,つまり太政官の長官として万機を総攬する官職である.
あえて知太政官事という令外官の設置をもって代えたのは,近江令の下での太政大臣であった大友皇子,飛鳥浄御原令の下での太政大臣であった高市皇子の存在を前提として,両者がともに皇太子ないしそれに準じる立場で天皇の共同統治者・政務代行者としての地位にあったことから,太政大臣の任命が皇太子指名に相当するものとの誤解を与え,当時の朝廷の首脳部により意図されていた草壁皇子の男系子孫による直系的皇位継承が不安定化することを避ける配慮が働いたものと考えられている.


つまり,知太政官事という官位は「太政大臣・高市皇子」に一歩,配慮した官位であるといえるのではないか.

これは,高松塚古墳とキトラ古墳の関係性によく似ている.

であるならば,キトラ古墳の被葬者は「忍壁皇子」と推定できるのではないか.


忍壁皇子は生母の身分から言っても,高市皇子に一歩劣る.

忍壁皇子の墓はその身分から,高市皇子よりも立派な墓を造営することは許されなかったが,同格の墓であることは許されたと考えられはしまいか?


キトラ古墳の被葬者は高松塚古墳の被葬者のようにはっきりと比定できる根拠が見つからなかった.

しかし,高松塚古墳との関係性から,現在のところ,忍壁皇子と比定しておくこととする.

今後の調査でもっと明確な証拠が見つかることを期待する.


高松塚古墳の被葬者=高市皇子キトラ古墳被葬者=忍壁皇子と比定できたところで,この「高松塚・キトラ古墳孝」のシリーズを終了したい.

今後,新たな発見などにより,仮説を変更または追記したいことがあれば再開したいと思う.


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by Allegro-nontroppo | 2014-06-22 19:05 | 高松塚・キトラ古墳

高松塚・キトラ古墳孝⑤ ー高松塚古墳の異常性ー

今回は焦点を高松塚古墳にあててみたい.


高松塚古墳にはいくつか異常な点が見られる.

まずは古墳の大きさである.

高松塚・キトラ古墳孝③ ー被葬者の身分ーでも触れたが土盛の広さでは王以上であるがその他の土盛の高さや石槨のサイズは薄葬令に規定されているものより小さい.

なぜ,小さいサイズで造られたのであろうか.


次に壁画について謎がある.

北方の玄武の蛇と亀の頭が削り取られているのだ.

同様に東西に描かれた日月の表面も削り取られている.

日には金箔,月には銀箔が貼られていたのだが,大部分が内欠かれているという.

これは自然の剥落ではなく,人為的なものであるという.

高松塚古墳は盗掘を受けた古墳であるが,盗賊たちがわざわざ壁画を傷つける意味は特に見いだせない.

そうであれば,最初から壁画は傷つけられていたと考える他ない.

こうなってくると,南方の朱雀についても疑問がでてくる.

南壁には盗掘孔が開けられ,そこから流れ出した泥水で朱雀は発見できなくなったと言われている.

しかし,最初から描かれていなかったから発見できないという可能性も否定できないのではないか.

朱雀問題は置いておくとしても,わざわざ完成された壁画を傷つけた意味はよく分からない.


最後はやはり被葬者についてである.

中間報告書によれば盗掘によって荒らされたような形跡はあるものの,残存率としては非常によいということだが,なぜか頭蓋骨と下顎骨は破片すら見つかっていないのだ.

但し,頭蓋骨に続く舌骨,化骨甲状軟骨,全頸椎は残存しているということで斬首などはありえないというのだ.

狭い盗掘孔を多数の副葬品を持って抜け出る必要のある盗賊がわざわざ頭蓋骨をもっていく可能性はまずないだろう.

被葬者は頭蓋骨を抜き取られ埋葬されたということになる.


上記の点は被葬者に対する負の感情を表しているとしか思えない.

古墳のサイズの小ささは被葬者を矮小にみせるため,壁画の剥落は被葬者への天皇位または皇族としての否定,そして頭蓋骨がないことにつては被葬者への罰のようなものを表しているのではないか.


つまり,被葬者は天皇になることを否定されたまたは古墳築造者が否定したかった人物ということであろう.


ところで,前回挙げた皇子たちのなかに「日本書紀」や「続日本紀」に謀反等の罪があったと記されている人物はいない.

よって,当時の時代背景や「日本書紀」や「続日本紀」の行間を読んでいくこととなる.


壬申の乱(参照:アマテラス及び神宮考③ -記紀・人代(天武天皇)と神宮-)は天智天皇の息子である大友皇子とその叔父で天智天皇の弟である天武天皇の皇統争いであった.

この争いを引き起こした側である天武天皇は当然,後継者問題には慎重であったと思われる.

それまでの慣習として天皇はその兄弟が継ぐことが多かった.

現に天武天皇は皇太子に立った(虚偽であるともされる)と日本書紀には記されている.

ところが息子可愛さに天智天皇は大友皇子に位を譲ってしまったことで争いが起きてしまった.

天武天皇には息子が何人もいたことから,後継者を明確にしようと「吉野の盟約」が交わされる.

これは天武天皇とその皇后であった持統天皇が同席のもと,草壁皇子を次の天皇と宣言した.

この後に草壁皇子は皇太子となっている.

天武天皇が病没すると草壁皇子の一歳下の異母弟で,同じくらい血筋の良い大津皇子の謀反事件が起こっている.

これは,草壁皇子の邪魔となる大津皇子を持統天皇が謀殺したといわれる事件である.

しかし,この草壁皇子は天武天皇の喪が明ける前に亡くなってしまい,持統天皇が即位することとなる.

持統天皇には子供が草壁皇子のみであるため,誰が後継者になるかもめたようだが,最終的には草壁皇子の息子の文武天皇が即位することになる.


このような事情であるから,前回の記事であげた川島皇子,草壁皇子,弓削皇子,高市皇子,忍壁皇子,磯城皇子の中で草壁皇子は候補から外れる.

天武天皇が病で亡くなる前から持統体制にスライドされ始めていた朝廷の中で草壁皇子が次期天皇となるのはほぼ確定事項であったろうし,また邪魔が入ったとしても大津皇子のように謀殺し,着実に天皇への道を持統天皇によって進まされていたからだ.


では,次に血筋の良い弓削皇子であろうか.

彼は持統天皇の後継者を決める会議で発言しようとして叱責されている.

これが罪とされたのだろうか.

私は違うと思う.

おそらく,会議で発言しようとした内容は兄である長皇子の推薦であろう.

万が一,長皇子が天皇位に就いたとしても,長皇子にはすでに息子があった.

私は「吉野の盟約」あたりで天皇位の男子長子の相続が天武天皇の意向とされたのではないかと思っている.

天武天皇は晩年,大津皇子を後継者にと,ぶれることはあったかもしれないが,天皇の息子への相続と言う点でははっきりと定めていたと思う.

そうであれば,弓削皇子は決して天皇位に近い皇子ではなかったのだ.

高松塚古墳の被葬者として弓削皇子を挙げている方に梅原猛氏がいらっしゃる.

彼の説は歯からの年齢鑑定はあてにならないこと,文武天皇の妃に皇族出身の皇女がいないこと,万葉集の歌などをその根拠にしている.

これには納得いかない部分がある.

被葬者の年齢は30代から70代で,歯の摩耗度からいえば4,50代であるという.

梅原氏は歯からの年齢鑑定を否定しているが,そうであっても被葬者の年齢は30代から70代なのだ.

こちらの根拠は歯ではなく舌骨と化骨甲状軟骨であり,歯とは異なり食生活を含む日常生活の違いが大きく影響を与える部分ではないと思う.

そうなると推定年齢27歳の弓削皇子は候補から外れる.

また,文武天皇の妃であった紀皇女との密通があったため弓削皇子は殺されたまたは罰を受けたという説を展開しておられ,古墳の状態を貶めたのは,皇族にも手を出すことができるという藤原不比等の権力を喧伝するためとされているが,それならば何故,長皇子に罪の余波がいかないのか.

また,密通の事実があったからといって,こそこそと墓を貶めようと考えるのはあまり納得がいかない.

そもそも,密通の可能性のある皇女を文武天皇の妃にするというのは持統天皇らしくない.


他の候補の皇子たちについても,川島皇子,高市皇子,忍壁皇子については基本的には「吉野の盟約」に参加し,天武・持統天皇の意向に沿った皇子たちといえるし,それぞれ天皇の下で汚い仕事も含めて働いていた皇子たちであるから,朝廷側から負の感情は持たれないように思われる.

また,磯城皇子についてもあまり事績がないということは影の薄い皇子であったと思われる.


では,せっかく挙げた候補者の中には被葬者はいないのか.


実は非常に気になる皇子がいる.

その人こそが高松塚古墳の被葬者でないかと考えている.

次回は高松塚古墳の被葬者に迫りたい.


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by Allegro-nontroppo | 2014-06-07 19:08 | 高松塚・キトラ古墳

高松塚・キトラ古墳孝④ ー候補となる皇子たちー


前回までの記事を踏まえて,候補となる西暦688-707年に亡くなった皇子たちを挙げてみる.

天智天皇,弘文天皇及び天武天皇の皇子たちとなる.


天智天皇の皇子

川島皇子657-691年)

:天智天皇の第2皇子.母は忍海造色夫古娘(忍海造小竜の娘).

「吉野の盟約」に参加した一人.

685年,浄大参(四品にあたる)の位.

686年,大津皇子の謀反計画を朝廷に密告.(『懐風藻』より)

691年に薨去.越智野に葬られた.


天武天皇の皇子

草壁皇子662-689年)

:皇后・鸕野讃良皇女(持統天皇)の皇子.

妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿陪皇女(後の元明天皇).

元正天皇・吉備内親王・文武天皇の父.

672年,壬申の乱が勃発すると他の兄弟達と共に両親に同伴する.

679年,「吉野の盟約」で事実上の後継者となり,681年に立太子.

しかし,皇位に就くことなく薨去.

陵は奈良県高市郡高取町の眞弓丘陵に治定されている.


弓削皇子?
-699

:第9皇子(第6皇子とも).

母は天智天皇皇女の大江皇女で長皇子は同母兄.

生年は不詳だが,寺西貞弘らによって天武2年(673)誕生と推測されている.

この推定に従えば,27歳での薨去.

高市皇子薨去後の後継者選定会議で発言しようとして,葛野王に叱責された.(『懐風藻』)

高市皇子654-696年)

:第一皇子で母は胸形尼子娘(宗形徳善の娘).

正妃は天智天皇皇女・御名部皇女(元明天皇の同母姉).

子に長屋王,鈴鹿王,河内女王,山形女王.

672年の壬申の乱勃発時,近江大津京にあったが父の挙兵に合流.

美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ,乱に勝利した.

679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わる.

686年に持統天皇が即位すると,太政大臣になり,以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった.

『延喜式』諸陵によれば墓は大和国広瀬郡の「三立岡墓」.

万葉集の柿本人麻呂の挽歌では百済の原に葬られたとある.

忍壁皇子?-705

:天武天皇の皇子で母は宍戸臣大麻呂の娘.

同母の兄弟姉妹に磯城皇子,泊瀬部皇女,託基皇女.

官位は三品知太政官事.

明日香皇女を妃としたとされ,山前王・従三位尚膳小長谷女王の父.

生年は明かではないが『続日本紀』では第九皇子とある.

672年の壬申の乱で父天武天皇に従い吉野から東国に赴く.

679年,吉野の盟約に参加.

685年,冠位四十八階に基づき浄大参を賜わる.

703年,に知太政官事に就任.


磯城皇子(生年没年不明)
忍壁皇子の同母弟であるが事績に不明な点が多い.


弘文天皇(大友皇子)の皇子
与多王(生年没年不明)

与多王は弘文天皇 (大友皇子)の皇子と言われているが,「日本書紀」に名前の出ない人物で園城寺(三井寺)の開基とされる人物であるから,藤原京の近くに墓があると考えるのは難しいだろう.

よって,被葬者の候補にはしない.


この皇子たちのなかでも身分の上下がある.

一番天皇位に近いのは何といっても草壁皇子であろう.

彼は皇太子にまでなっており,あと少し長生きできていれば確実に天皇となれたはずだ.

次点としては弓削皇子である.

彼の母親は天智天皇皇女であったから,天皇にもなれる血筋であった.

但し,異母兄弟に天智天皇皇女を母とする兄が既にいたこと,さらには同母兄として長皇子がいたことから,実質的には望みが少なかった.

その他の皇子たちの母は皇族出身でなかったことから天皇になれる血筋ではなかった.

それでは,高松塚・キトラ古墳の被葬者は草壁皇子と弓削皇子となるのであろうか.

そうであればどちらの皇子がどちらの古墳に葬られたことになるのだろう.

さらに特定するために次回は高松塚古墳の異常性について確認していきたい.


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by Allegro-nontroppo | 2014-06-03 19:08 | 高松塚・キトラ古墳

高松塚・キトラ古墳孝③ ー被葬者の身分ー


高松塚・キトラ古墳の被葬者の身分を大化の改新で定められた「薄葬令」から推定してみたい.

薄葬令で定められたは土盛の大きさ,王以上で方九尋・高さ五尋,上臣で方七尋・高さ三尋,下臣で方五尋・高さ二尋半である.

高松塚古墳は直径約23 m・高さ5 mであり,キトラ古墳は直径約13.8 m・高さ3.3 mである.

ここでは大宝律令の小尺である約29.6 cmを一尺とする.

一尋は六尺であるから,広さにおいて高松塚古墳は王以上,キトラ古墳は上臣以上で高さは両古墳とも下臣またはそれ以下である.


石槨については王以上及び上臣下臣は長さ九尺・高さ広さ五尺,大仁小仁は長さ九尺・高さ広さ四尺と定められている.

高松塚古墳は高さ113.4 cm・幅103.2 cm・奥行266.7 cmであり,キトラ古墳は高さ114 cm・幅104 cm・奥行240 cmである.

こちらは長さ,高さ,広さともに大仁小仁以下となる.

身分制度の厳しかったであろう古代の事だから,被葬者の身分を上回る古墳を築造することはないであろうことを考えると高松塚古墳の被葬者は王以上でキトラ古墳の被葬者は上臣以上であると考えられる.


次に高松塚・キトラ古墳の壁画の主題から推定してみたい.

両古墳に共通している主題は上記に示す通り,天文図と四神である.

キトラ古墳の天文図は約360顆の星から二十八宿(黄道上またはその付近にある)及び紫微垣の星官(中国の星座)を含む68の星官と内規(北天で常に水平線・地平線上にある範囲),外規(天空に見える範囲)、赤道(天を球体と考えたときの赤道),黄道(太陽が運行するコース)が描かれている.

高松塚古墳の天文図はキトラ古墳のそれよりデザイン化され,約120顆の星から成る二十八宿を含む32組の星官で構成されている.

両古墳の天文図では,現在の天文図と同様に中心に北極星が描かれている.

この北極星は神格化され,「天皇大帝」と呼ばれ,日本の「天皇」の称号の起源となったと言われている.

天皇の称号が使われ始めたのは天武天皇の御代だとされているから,時期的には古墳築造時期とかなり近いのである.

これらから推察するに,この天文図は「北極星=天皇」を巡る「星または星官=臣下たち」を意示唆していると考えられる.

もっと直接的な証拠として,紫微垣というのは最高神の天帝を中心とする星官群で天帝の居所とされているのだ.

つまりこの天文図の真下に眠る被葬者は天皇or天皇に近しい人物を意味しているのではないか.


さらに四神は天の四方を司る霊獣で,二十八宿を七宿ごとに分けて東方青竜・北方玄武・西方白虎・南方朱雀と対応付けられている.

ということは,四神においても天文図と同じ意味を持っているということである.

この四神を五行思想から考えてみると東方=青竜,北方=玄武,西方=白虎,南方=朱雀に中央=黄竜が加わる.

この黄竜は黄帝=皇帝の権威を象徴するのである.

よって,四神の壁画に描かれた中央に眠る被葬者はやはり天皇または天皇に近しい人物となるのである.


最後に副葬品も確認しておこう.

注目したいのは両古墳から出土した大刀である.

まず,大刀が副葬品とされている以上,被葬者は男性であろう.

大刀と飾り金具とよく似た金具をつけた金銀鈿荘唐大刀が正倉院に納められている.

この大刀は草壁皇子→藤原不比等→文武天皇→藤原不比等→聖武天皇と譲られた,ある意味皇位継承のしるしである.

また,高松塚古墳では海獣葡萄鏡も出土している.

この鏡は則天武后の時代によく作られた鏡で第8回遣唐使(702-704年)以前に唐から持ち帰られたものと考えられる.

このような唐渡りの鏡を副葬品とできるのは高位の身分でなければ叶うまい.

以上のことから鑑みるに両古墳の被葬者は天皇位にかなり近しい人物,つまり天皇の皇子と推定される.
次回は天皇の皇子たちから候補者をピックアップしてみたい.


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by Allegro-nontroppo | 2014-06-01 19:00 | 高松塚・キトラ古墳

高松塚・キトラ古墳考② ー時期の特定ー

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今回は高松塚・キトラ古墳の築造時期と被葬者の死亡時期について考えてみる.
高松塚・キトラ古墳はその形状から大化の改新で定められた「薄葬令」以降の古墳,つまり終末期古墳に分類される.

もう少し,築造時期を特定できないであろうか.

高松塚・キトラ古墳の立地している場所に注目したい.
この周辺には壬申の乱で有名な天武天皇とそのあとを継いだ持統天皇の合葬陵や文武天皇陵などが立地する天皇家の墓域とも呼べる地域である.
また,この墓域の南にはかつて藤原京が存在していた.
Yahoo地図よりこの墓域の地図を用意してみた.
赤い矢印6個を見ていただきたい.
地図の上部にある藤原京朱雀大路跡から菖蒲池古墳,天武・持統天皇合葬陵,高松塚古墳,文武天皇陵,そしてキトラ古墳がほぼ一直線に並んでいるのがわかるはずだ.
上記古墳に中尾山古墳を加えて「聖なるライン」と呼ばれることもあるそうだ.
朱雀大路は藤原京中心を南北に突っ切る中軸の道路であった.
この延長上に古墳を築造しようと思うならば,藤原京の造営計画がある程度出来上がっていなければならないだろう.
「聖なるライン」がただの偶然だとしても,藤原京のごく近くの墓域に築造されている以上,藤原京との関係を否定することはできないだろう.
そう考えると藤原京が平城京に遷都した後にわざわざ戻って築造されたと考えるのも難しくなる.
ということは,藤原京着工とされる西暦676年から平城京遷都の西暦710年くらいであろうか.
下限については+5年ほど余裕をみて西暦715年としてもよいかもしれない.

次に被葬者の埋葬方法から,被葬者の死亡時期を特定したい.

高松塚・キトラ古墳と同墓域に葬られた天武天皇から考えてみる.
天武天皇は西暦686年10月に亡くなり,約2年間の殯の後,西暦688年11月に埋葬されている.
殯とは死者を本葬するまでの長い期間,遺体を仮安置し,遺体の腐敗・白骨化などを確認し,「死」を確認することという.
この天武天皇の殯であるが,日本書紀に記載される他の天皇に比べて断トツに長いのである.
これは天武天皇が時代の転換期を作ったという意味で特別な天皇であったことも理由に含まれるであろう.
西暦676年~715年に死亡した者の中にこの天武天皇を超える人物がいたとは到底思えないから,殯の期間は2年より短くなると思われる.

天武天皇からもう一つ推測できることがある.
藤原京の南の墓域に埋葬された最初の人は天武天皇ではないかということである.
いくら,既に着工されているとはいえ,まだ完成されていない都のすぐそばに古墳を作ろうと思えるであろうか.
とてもそうは思えない.
天武天皇の古墳が藤原京の真南に築造されることが藤原京遷都への一つの過程であったのではないだろうか.
「あの偉大な天武天皇が見守ってくださる都だ」と思わせることは皆の遷都への意欲を駆り立てたに違いない.
もしかしたら,長すぎる殯の期間はある程度,造営の目途が見える時期を待っていたのではないかとも思える.

以上のことから築造時期については西暦688年以降と考えられるが,一つ問題が残っている.
それは移葬・再葬・改葬の可能性である.
例えば,聖徳太子とセットで有名な推古天皇は植山古墳に埋葬されたが,後年,時期は不明ながら,河内国磯長山田陵に改葬されたという.
もし,高松塚・キトラ古墳の被葬者も同じように改葬などされていたら,死亡時期の特定は困難になってしまうが,やはり,藤原京のすぐ南の墓域に築造されているということで藤原京と関係がある人物と考えてよいと思う.

被葬者の死亡時期の下限について考えてみる.
高松塚・キトラ古墳の出土遺物に棺の痕跡があった以上,被葬者は火葬されていないと考えてよいであろう.
ところで,天皇の中で最初に火葬されたのは持統天皇で続く文武天皇,元明天皇も火葬されている.
持統天皇の頃は移行期間と考えて火葬されない人がいたとしても,文武天皇の死亡時期頃には火葬が主流となったと考えられる.
よって,被葬者の死亡時期の下限として,文武天皇が死亡した西暦707年としたい.

以上より,西暦688年~707年に死亡した人から該当者を探してみたい.
次回は被葬者の地位から候補者を探してみたいと思う.


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by Allegro-nontroppo | 2014-05-25 17:30 | 高松塚・キトラ古墳

高松塚・キトラ古墳考① ー概要ー

東京国立博物館で開催されたキトラ古墳壁画展は5月18日にその幕を下ろした.
このようなタイミングであるが,高松塚・キトラ古墳の被葬者に迫ってみたいと思う.

最近の高松塚・キトラ古墳はその壁画の保存や修復に注目が集まるばかりで被葬者に対する議論は活発に行われていないようだ.
高松塚・キトラ古墳と同時期の中国の墓では身分の高い者は墓誌と共に埋葬されていたため被葬者の特定はそう難しくない.
一方で,日本では一部を除き,個人が特定できる墓誌のようなものを一緒に埋葬する習慣がなかったため,被葬者の特定が困難になっている.

しかしながら,被葬者の比定をあきらめてしまってよいのでろうか.

高松塚・キトラ古墳壁画が被葬者に捧げられた絵画であることを否定する人はいないと思う.
壁画を考えるにあたって被葬者をないがしろにすることは本当に壁画の価値を見定められているということにはならないだろう.
既にニュースにもなっているように高松塚古墳壁画は当分の間古墳に戻さない方針であるらしい.
これについて「歴史的価値を保つためにも古墳に戻すことをあきらめるべきではない」とか「近くの施設で公開すべき」などの様々な意見があるようだが,結局は壁画の美術的及び文化的価値のみに焦点があてられているようにしか受け取れないのである.

そこで高松塚・キトラ古墳被葬者の比定に挑戦してみようと思ったわけである.

今回は二つの古墳の情報をまとめておきたい.

高松塚古墳
所在: 奈良県高市郡明日香村大字平田字高松
築造年代: 7世紀末~8世紀初
古墳: 二段築成の円墳,版築による築成 直径約18 m (上段部),約23 m (下段部) 高さ5 m
石室: 横口式石槨 高さ・内法113.4 cm (北壁・左端) 幅・内法103.2 cm (北壁・上辺) 奥行・内法266.7 cm (東壁・上辺) 切石厚51 cm (東壁側石) 凝灰岩製 使用数16枚 (南北壁各1,東西側壁各3,天井4,床4) 天井石 平石
出土遺物: 棺関係遺物・金銅製透彫金具1箇,銀装唐様大刀金具類9箇,海獣葡萄鏡一面,玉類・ガラス製粟玉936箇,附土器類(土師器,須恵器,瓦器等)一括,版築層からは藤原宮期の土器「飛鳥V」を確認
被葬者: 筋骨の発育が良好な男性,憶測身長は163 cm,推定年齢は塾年者あるいはそれ以上 (壮年者以下である確立は低いが、老年者である確立も否定できない), 頭部(頭蓋骨)が見つからない (頚椎などの骨が残っていることから「斬首のごときはあり得ない」)

キトラ古墳
所在: 奈良県高市郡明日香村大字阿部山字ウエヤマ
築造年代: 7世紀末~8世紀初
古墳: 二段築成の円墳,版築による築成 直径約9.4 m (上段部),約13.8 m (下段部) 高さ3.3 m
石室: 横口式石槨 高さ・内法114 cm (北壁・左端) 幅・内法104 cm (北壁・上辺) 奥行・内法240 cm (東壁・上辺) 切石厚47 cm (西壁側石) 凝灰岩製 使用数18枚 (北壁2,南壁1,東壁4 (一部2段),西壁3,天井4,床4) 天井石 屋根形切込み
出土遺物: 金属製品・木棺金具・金銅製鐶座金具及び銀鐶付六花形飾金具他及び黒漆塗銀装大刀他,漆塗木棺 (棺材,漆膜),玉類(ガラス玉,琥珀玉),微少鉛ガラス,金箔片,土器類(小破片)
被葬者:人骨片は約15点出土しており,左右の上顎骨・右頬骨や犬歯・中切歯・側切歯・第一臼歯など.重複する骨の部位がないことから,一人の熟年男性の可能性が高い.

高松塚・キトラ古墳壁画については以前作成した表を再度貼っておく.
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以上である.
次回は築造時期と被葬者の死亡時期について考えてみたい.

※2014年5月21日,一部,誤字がありましたので訂正いたしました.

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by Allegro-nontroppo | 2014-05-20 19:15 | 高松塚・キトラ古墳

「高松塚・キトラ古墳の謎を解く」

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昭和女子大学 オープンカレッジ 「高松塚・キトラ古墳の謎を解く」を受講した.
講師は住吉善慎氏である.
写真はキトラ古墳である.

講義では高松塚・キトラ古墳の被葬者及び築造時期という謎について住吉氏が挑んだ過程とその結果を解説された.
その方法とは
・天智天皇から長屋王の子まで,約60人をピックアップする
・古墳壁画のもつ意味合いを探る
→その結果,合理的と判断する人物・事績を絞り込むという方法で比定されたという.


住吉氏は高松塚古墳壁画の各群像図について,弔賻をイメージしたものと考えられた.
つまり,この壁画は
罪なくして悲劇的な死をとげた人物への鎮魂ということである.
そして,この悲劇とは
「長屋王の変」ではないかという.

長屋王の変について,簡単に記しておこう.
西暦729年,「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告があり,それをうけて藤原不比等の息子である宇合らの率いる六衛府を含む軍勢が長屋王の邸宅を包囲,また舎人親王
など高官らによる糾問の結果,長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され長屋王本人も自尽した事件である.
この事件が起こった背景としては,第45代聖武天皇がその生母である藤原宮子に「大夫人」の称号を与えようとしたことに始まる.
一度,勅は出したものの,これは公式令に存在しない称号であることから天皇に判断を仰ぎたいと長屋王が訴えでたため勅を撤回するに至った.
問題なのはこの藤原宮子が藤原不比等の娘で宇合ら藤原四兄弟の姉または妹であったことだろう.
この勅については,藤原四兄弟は権力の拡大という思惑あってのことであるし,長屋王としてはこれ以上藤原氏の勢いが増せば,天皇家の勢力が弱まることを恐れて阻止したかったと思われる.
この結果,長屋王の排除する必要を感じた藤原四兄弟によって「長屋王の変」が引き起こされることになるのである.
この藤原四兄弟が黒幕であるという証拠として
・長屋王を誣告した中臣宮処東人が惨殺されている.
・続日本紀に誣告と記されている.
・長屋王変の後に藤原四兄弟の妹である光明子が皇后として立后している.(当時は皇族のみしか皇后にはなれない)
・藤原四兄弟及び舎人親王など長屋王の変に関わった人物が天然痘で次々に亡くなった際に長屋王の祟りと言われた.
などである.

この天然痘の流行で当時の高官たちも次々に亡くなってしまい,出仕できる公卿はわずか2人のみになってしまった.
これが橘三千代の息子である橘諸兄と長屋王の弟である鈴鹿王である.
当然のことながら,彼らを中心にその後の政治を回していくことになるのである.

この事実から,住吉氏は高松塚・キトラ古墳の築墓者は鈴鹿王と比定された.

さらに当時の時代背景として第10回遣唐使の平群広成が帰国してきたことも比定のポイントとなるであろうということである.
第10回遣唐使の際,唐にいた阿倍仲麻呂は他の遣唐使と比べて平群広成の面倒をよくみている.
これは阿倍仲麻呂の弟が長屋王と親交があったゆえではないかと推察されるというのだ.
また,現在,宮内庁が治定している長屋王の墓は平群氏の領地であった平群町にあることもその証左であろう.

以上の事実より,住谷氏の見解は以下のとおりである.
・築墓者は鈴鹿王である.
・高松塚古墳の被葬者は鈴鹿王の兄の長屋王で,キトラ古墳の被葬者は長屋王・鈴鹿王兄弟の父,高市皇子である.
・鈴鹿王は長屋王の変で讒言により自刃した長屋王の名誉回復及びその魂の鎮魂と安寧を求めた.
・高市皇子の死についても陰謀の影がちらつくことから,その魂の鎮魂と安寧の必要性を感じていた.
・藤原四兄弟など長屋王の変の関係者が死亡したところで橘諸兄らの協力も得て,鈴鹿王(生駒山)と高市皇子(三立岡墓)より高松塚古墳とキトラ古墳へ移送した.
・高松塚・キトラ古墳壁画や副葬品は第10回遣唐使の平群広成の協力を得た.
・高松塚・キトラ古墳は同時期に築造された.
ということである.

非常に面白いお話であった.
特に高松塚古墳壁画の群像図を弔賻の場面としたところなどは目から鱗が落ちるような思いであった.

しかし,住吉氏の御意見にはいくつか難点があると思う.

1つ目は副葬品に関する問題である.
現在,高松塚・キトラ古墳の副葬品から高松塚古墳の方が高位の被葬者でキトラ古墳については高松塚より少し低い被葬者が埋葬されていると言われている.
ところが住吉氏の説を採用するとその地位は逆転してしまうのだ.
つまり,高市皇子は天皇の息子であり,太政大臣まで昇りつめた人であるが,長屋王は天皇の孫であり,その地位は正二位左大臣であるから高市皇子より地位は劣る.
これについてどう思われるか質問をしてみたところ,鈴鹿王は高市皇子より長屋王を手厚く葬りたかったので高松塚古墳のほうが豪華になったのではないかとおっしゃっていた.
住谷氏には申し訳ないがこのご意見は筋が通らないと思う.
高市皇子に比べて長屋王の方が悲劇的な最期を迎えたことは間違いないが,だからといって階級を超えてまで長屋王の副葬品を父である高市皇子より素晴らしいものにしようと思うだろうか.
また,高松塚古墳の副葬品である「海獣葡萄鏡」は遣唐使が唐より購入し,埋葬時に棺に入れたとしてもよい.
しかし,両古墳から出土した銀装大刀については生前,被葬者が使用していたものではないのか?
大刀を新たに打ちなおして副葬品とするというのは奇妙な話に思える.
銀装大刀は被葬者の地位の上下が推測されているので重要な問題だと考えられる.

2つ目は築造時期の問題である.
さらに,第10回遣唐使の関与も推察されているから,彼らが帰国した西暦739年以降に完成したと考えなければ計算に合わない.
築造時期が739年以降で本当に正しいのか.
高松塚・キトラ古墳は現在の明日香村に位置している.
これは藤原京を突っ切る朱雀大路のその南の延長線上であり,この線上には他の皇族たちの墓もあることから聖なるラインという説もあるほどだ.
よって,高松塚・キトラ古墳及び被葬者は藤原京と関係性が深いと考えられるわけだが翻って,高市皇子と長屋王はどうだろう.
高市皇子は藤原京遷都に功労があったと記載されているし,藤原京で亡くなったと考えられるから,関係性が深いとはいえる.
しかし,長屋王は藤原京で政治に加わっていた時期はもちろんあるものの,活躍の中心は平城京であり,亡くなった場所も平城京である.
都も既に平城京に遷都し30年近く経っているのである.
今更,過去の都である藤原京近くに近親者の墓を建てようと思うだろうか.
また,先にも書いた藤原京の南の皇族たちの墓,聖なるラインが藤原京を守る名目で建設されたとしたら,さらに今更,そこに墓を建設する意図が分からないのである.

3つ目は埋葬されていた被葬者の問題である.
高松塚・キトラ古墳の被葬者は棺に入れられ,埋葬されているから火葬はされていないと考えられる.
長屋王は西暦729年に亡くなったとされている.
天皇の中で初めて火葬されたのは持統天皇である.
西暦729年までに持統天皇に続き,文武天皇と元明天皇が亡くなっているのだが,彼らも火葬されているのである.
これは既に天皇の火葬が習慣化されていたと考えられるが,罪人となっていたといえ火葬されないということがあるだろうか.
ちなみに高市皇子は持統天皇より早くに亡くなっているので(西暦696年)火葬されていないのは当然であろう.
また,高松塚古墳の被葬者は状態がよく,人骨も大部分残っているが,斬首などされた跡がないのに頭蓋骨がないというのである.
この頭蓋骨は一体どこに行ってしまったのだろう.

これらの難点に解決がつかない限り,長屋王が高松塚古墳の被葬者である可能性は低いのではないかと考える.

とはいえ,面白い角度で検証されており,非常な有意義な時間であった.

※2014年5月21日,一部,誤字を訂正した.

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by Allegro-nontroppo | 2014-05-18 19:29 | 講演会,シンポジウムなど

特別展「キトラ古墳壁画」記念講演会@東京国立博物館

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写真は特別展「キトラ古墳壁画」の展覧会カタログ(図録)である.
普段,博物館に行っても,あまり図録は購入しないのだが,この図録は購入してしまった.
見本を立ち読みさせて頂いたところ,コラムが充実しているようだったし,何より,副葬品の情報まで載っているのが素晴らしい.
キトラ古墳と高松塚古墳は壁画に注目が集まるせいか,あまり副葬品についての資料が見つからないのである.
壁画などのグラビアも美しいし,これからじっくり読んでいきたい.

さて,特別展「キトラ古墳壁画」記念講演会(2) 「キトラ古墳壁画に迫るー高松塚古墳壁画との比較からー」に参加したのである.
特別展「キトラ古墳壁画」鑑賞に関する当ブログ記事はこちら
この講演会に参加するためには事前に応募が必要で,その時にはGWの混雑ぶりなど全く想像せずに応募してしまった.
よって,5月3日という,とんでもない日に東京国立博物館に向かうことになってしまったのである.

講師は有賀祥隆氏.
高松塚古墳の発見時には,文化庁の調査員として調査に携わった方だそうである.

講演内容としてはキトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画の写真を用いた比較が中心であった.
この比較については様々な文献で取り上げられているので,今回は大まかに書いておくと次のようになる.
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上記以外でおもしろいと思った解説を下記に記す.

・天文に関して
キトラでは四神を四方の壁の上部に描いているように天体の一部という意識があるが,高松塚では東壁に太陽,西壁に月を描いたり,天文図についても象徴となる28宿のみしか描かれていないなど,天文に関する意識が希薄になっている.

また,キトラでは太陽と月の下に雲気文が描かれているが,高松塚では山岳文に変化している.
これは山岳文は法隆寺の塑像にもみられるので,高松塚と法隆寺の建造は時期が近いと考えられる.

ちなみに天井はキトラは屋根型の切り込みありで,高松塚は平置きである.

・キトラの四神と十二支に関して
四神は全て右を向いているが十二支は全て左を向いて描かれている.
正倉院宝物の十二支八卦背面鏡の青龍と白虎と似た表現(特に足と尾の絡まり)だが,朱雀は少し違う.
あえて言うなら,法隆寺玉虫厨子の背面の絵に似ている.
古い形の朱雀をモデルにしている?

十二支の服は描かれた方位の五行に合わせた色で描かれている.
中国ではブロンズで造られた十二支で埋葬者を守る風習があった.

四神,十二支でランクの違う絵描きが書いているようである.

・高松塚の群像に関して
東壁男子群像は視線を遮る人をいれるという中国の進んだ表現法が取り入れられている.

西壁女子群像,通称飛鳥美人は頭の高さがそろっていないことや服にしわを入れるなど画期的な表現方法が取り入れられている.

東壁は当時の一流の職人が描き,西壁は若い意欲的な職人が描いた可能性がある.

・制作年代に関して
中国の壁画をよく学んで描いている.
高松塚の人物像の服装から,衣服令の時期とあわせて考えると時期が絞れる.
710年くらい?
キトラの方が高松塚よりも少し古い.

・キトラの所在地に関して
キトラ古墳は阿部山にある.
阿部御主人は大臣までんった人物で707年に死亡している.
何か関連はあるか.


有賀氏ご本人がおっしゃっていたように,当たり障りのない,非常に言葉じりに気を付けた講演会であった.
キトラと高松塚古墳に関しては推論を出すことすらタブー視されているのだろうか.
正直なところ,とてもタイトル通りにキトラ古墳壁画に迫れたとは思えない.
これは有賀氏個人の問題ではなく,キトラ・高松塚古墳に漂う「決して仮説,推論を述べてはいけない」という雰囲気のせいであると考える.
この件については,いずれ当ブログで記事を書きたいと思う.

以上が,特別展「キトラ古墳壁画」記念講演会(2) 「キトラ古墳壁画に迫るー高松塚古墳壁画との比較からー」参加記録と感想である.

おまけ
東京国立博物館では表慶館で「飛鳥ーキトラ2016ー」も開催中である.
一番の見どころはキトラ古墳壁画と高松塚古墳壁画をタブレット端末で自由に拡大縮小できる映像展示であろう.
ここはすごい人だかりであった.
どうやら,人の多さにキトラ古墳壁画観覧を断念した人も集まってきているらしい.
残念ながら,私は体験できなかったが,他にも当時の飛鳥京のイメージをCGで再現し,タブレット端末で体験できるコーナーがあり,こちらは楽しませてもらった.
他にも里中満智子氏の「持統天皇物語 天上の虹」のマンガ原稿や藤原京のジオラマなど見学できる面白い企画であった.


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by Allegro-nontroppo | 2014-05-07 19:18 | 講演会,シンポジウムなど

特別展 キトラ古墳壁画@東京国立博物館

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5月3日にキトラ古墳壁画を東京国立博物館に見に行ったのである.
噂通り凄い人であった.
9時45分に特別展の入場者の列に並んだのだが入館できたのは11時ごろであったから,1時間以上も並んだことになる.
何年か前の「阿修羅展」に並んだことを思い出してしまうが,あちらはこれより長い時間並んだと記憶しているし,なにより太陽を遮るものが何もない所に並ばなければならなかったので,非常に苦しかった.
一方,こちらは並ぶ場所に木陰が多かったので,そのぶん楽である.
列からは「栄西と建仁寺展」に並ぶ人も見えたが,列が短く,頻繁に動いているようだったので,すぐ入場できそうであった.
ちなみに,この「栄西と建仁寺展」に先日訪れたときに前売り券を買っておいたので,入場券購入の列に並ばずに済んだのは本当に良かった.
(「栄西と建仁寺展」の当ブログ記事はこちら)

さて,展示室 (今回は本館特別5室) に入場するとまず,四神及び十二支のパネルが展示されている。
その先に進むと四神+天文図の複製陶板やキトラ古墳墳丘模型が並んでいる.
今回の展示では青龍 (東壁) と天文図 (天文図)は来ていないので,じっくり眺めた.

次に展示されているのはキトラ古墳の出土遺物である.
出土遺物がどれだけ出ているのか調べていなかったので分からないが,琥珀玉以外は全て実物であった.
展示されているとは思っていなかった銀装大刀関連もかなり展示されていたので,感激してしまった.

壁画の剥ぎ取り作業や修復作業のビデオ上映を経て,ついにキトラ古墳壁画の実物と御対面である.
この前にも少々列ができていたが,5分並んだかどうかである.
まず展示は四神(玄武・白虎・朱雀の順だったと思うが,だいぶ記憶が怪しい)から.
描かれてから千年以上経っているとはとても思えないほどはっきりと絵が見える.
一部,泥水などの影響で赤く見えにくくなってしまっている部分もあったが,逆にそれ以外の部分に影響がないといういうのは,当時の岩石の工作技術の凄さを物語っていると思う.
玄武は緻密さ,繊細さを感じさせてくれるし,白虎は伊藤若冲の虎を思い出させるような,愛らしい顔立ちをしている.
朱雀は優雅に羽根を広げて疾走している.
光の十分に届かない石室の中で描いたとは思えない素晴らしさだ.

次に十二支のうち子と丑 (北壁) と複製陶板の寅 (東壁) である.
正直なところ子と丑は不鮮明でどのような絵が描かれていたかは他の十二支から想像するしかない.
そこで,隣に並べられた複製陶板を眺めてみるのだが,思い出したのは死者の書に描かれたエジプト神話のアヌビスである.
彼は犬またはジャッカルの頭をもつ半獣の姿で描かれているが,寅やパネルの午をみるとどちらも寅と午をもつ半獣の姿である.
おそらく,他の十二支たちも似たような姿で描かれていただろう.
古墳→死者の書という連想ではあるが,エジプトでも日本でも死者の世界には半獣がいるのかもしれない.

最後に高松塚古墳壁画の飛鳥美人等がパネルで展示されていた.
こちらは,すでに1月に遠目とは言え見物しているのでさらっと眺めるにとどまった.
(その際の記事はこちら)

全体の感想としては壁画は絵の描かれている部分のみをはぎ取っているということに愕然とした.
例えばキトラ古墳の北壁には玄武と十二支の三体が描かれているとされているが,十二支は6体のみしか発見されていない.
今のところ「判明している壁画」剥ぎ取りが完了したとされているが,では判明していない壁画はどうしているのだろう.
そもそも,部分,部分のみで剥ぎ取っているというのがいただけない.
画家は壁一面をキャンバスとして描いたはずで,それなのに個々が確認されている部分のみを剥ぎ取るのは,レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のイエス・キリストと十二使徒それぞれを保存のためと言って分割するのと何ら変わらない.
剥ぎ取った今となっては四神がそれぞれの方位に描かれていたということなど,二次資料でしか確認できないのだ.
描かれた対象を考えるに,これらの壁画は方位や配置に重要な意味があることは素人の私だって分かるのに.
今後,数々の分析技術が発展していくことは間違いないが,この壁画の復元についてはもう無理と思ってよいかもしれない.

以上が,特別展 キトラ古墳壁画の感想である.
ところで,GWの真っただ中,5月3日の大混雑の中でわざわざ行くなんて「酔狂な」と思われた方がほとんどだと思う.
私もできれば,こんな日には行きたくないと思っていたが,この5月3日の記念講演会の受講券を入手していたため,覚悟して訪れることにしたわけである.
この講演会についてはまた次回.

※2014年5月21日に誤字・脱字を修正した.
内容変更はなし.
申し訳ありません.



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by Allegro-nontroppo | 2014-05-05 19:20 | 博物館