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僧形の皇子たちーいざ,吉野へー

僧形の皇子たちーいざ,吉野へーの講座を受講してきた.

講師は松田度氏(大淀町教育委員会)であった.

以下,概略である.

飛鳥時代,吉野へ逃れてきた僧形の皇子

・古人大兄皇子(吉野太子)

6456月 乙巳の変(大化の改新)

・大海人皇子(天武天皇)

6726月 壬申の乱


吉野

原吉野:飛鳥と吉野川に挟まれた地域

豊かな原野…はるか遠くに高見山,大和と伊勢の境

土田遺跡…大河吉野を見下ろす

古代庭園の発見:蛇行溝≒庭園…8世紀後半ごろに埋没

曲水の宴を思わせる郡家に接する庭園


地元の支援者

・吉野首(土田遺跡付近)

・国栖(宮瀧遺跡)

・阿太鵜飼


◎古人大兄皇子

6456月「吉野山」へ

12日 乙巳の変

   古人大兄皇子 法興寺(飛鳥寺)にて出家

13日 蘇我蝦夷 館に火を放ち自殺

14日 軽皇子(孝徳天皇)即位

6459月(もしくは11月)

古人大兄皇子は謀反の罪で一族とともに殺害

怨念が雲となって漂う


古人大兄皇子が吉野太子と呼ばれた理由

彼が吉野山へ行った理由

吉野山≒古人大兄皇子の「宮(皇子宮)」


二つの吉野山

→現 吉野山

→古 吉野山(奈良時代以前)


吉野・世尊寺

古 吉野山

比曽(蘇)寺…最古の山寺

沈水香の観音

吉野最古の木造彫刻

推古朝…淡路に漂着した香木

7世紀の瓦(吉野ではここだけで発見)

640年代 古人大兄皇子と蘇我氏ゆかりの仏匠たち…比曽寺,百済寺,山田寺

トヌカイト遺跡…比曽寺付属施設→吉野で初めて古代の硯出土

寺と工房

飛鳥寺と飛鳥池遺跡(造寺司)

比曽寺とトヌカイト

→渡来系氏族

比曽寺は吉野の中の飛鳥→渡来系工人:東漢氏

縁起絵巻

上巻 飛鳥時代の仏教伝来

・欽明14年(553年)5月 高脚浜に流れ着いた霊木

茅渟の海 光を放ちながら樟が流れ着く…放光樟で日本最古の造仏

池辺直→蘇我馬子の腹心

今,吉野寺に放光する樟の仏なり

下巻 復興譚


吉野と豊浦

日本霊異記 上 第5

飛鳥の豊浦堂安置日本最古の阿弥陀仏:吉野寺の本尊

→蘇我の法灯

蘇我大臣の法灯を吉野へ

蘇我の法灯をうけつぐため世俗を捨てる(僧形)

孝徳新政権⇔皇子宮(古・吉野山)へこもる

・蘇我の法灯の象徴を遷座

・支援者を古・吉野へ集める

蘇我と吉野:蘇我氏ゆかりの財産,工人…


◎吉野を継ぐ者

古人大兄皇子の死後…

蘇我氏 山田大臣(石川麻呂)…6493月 石川麻呂の変

山田寺(石川麻呂発願)にて一族とともに自害

蘇我本宗家(倉家)の内部分裂

ポスト石川麻呂をめぐって

・赤兄,果安:近江・大友皇子派

・安麻呂,鵜野讃良皇女:大海人皇子派


672年 壬申の乱

大海人皇子

1017

吉野入りを決意,天智天皇に許される

近江宮で出家,袈裟を着る

1019

吉野に出立,大臣らが送る

夕べ 飛鳥嶋宮で御す


吉野入りの実態

・舎人ら数十人の大集団

・鵜野讃良皇女,草壁皇子は嶋宮で合流

・行幸に近い


鵜野讃良皇女→天武天皇がやってくる下準備,吉野にいた?


忍坂皇家の血をひく:大海人皇子

蘇我倉家,忍坂皇家の血をひくハイブリットな存在:鵜野讃良皇女

→蘇我氏の法灯を受け継ぐ

大海人皇子:支援者・鵜野讃良皇女の懐に飛び込んだ→古人大兄皇子の古地へやってきた


720年 日本書紀

・持統天皇自身が自分のストーリーを

・消えない蘇我氏の血

・女帝の記憶 残したいもの,消したいもの

→倭姫=持統天皇と同等の立場(血統上も):記録があまりない


蘇我氏

→日本で最初に仏教を擁護した特別な血統


大化の改新

孝徳天皇 

蘇我蝦夷,入鹿:仏教の大事な部分を継承

→本当ならば聖徳太子とすべき(日本書紀は蘇我氏をけなしているのに)


持統天皇

30回以上も吉野へ

・比曽寺に立ち寄っている(宿泊)

・目指すは宮滝

→王権の神・大穴持(神祀りの宮)をうつす(三輪山から出雲へ)


聖武天皇も同じようなルートをたどった

疫病を抑えるためシャーマンとなる

九つの頭をもつ竜が吉野にいた

→失敗,二度と来ない…廃れていった


吉野という地の特殊性はいろんなところで語られているが,蘇我氏と結びつけるという発想は私の中では新しいものであった.

持統天皇行幸問題も,神祀りという従来の意見に大穴持を絡めて説明されており,この部分だけでももっと詳しくお話しを伺いたいと思えた.

また,いずれの機会を楽しみにしたい.


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by Allegro-nontroppo | 2016-07-31 19:26 | 講演会,シンポジウムなど

「飛鳥学講演会」 推古女帝の時代~飛鳥を翔けた女性たち~

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「飛鳥学講演会」に参加してきた.

本年度は「推古女帝の時代~飛鳥を翔けた女性たち~」をテーマに講演やパネルディスカッションが行われた.


「最近の発掘成果―牽牛子塚古墳・飛鳥寺西方遺跡の調査―」

講師:長谷川透氏(明日香村教育委員会文化財技師)

◎牽牛子塚古墳

8年前の調査で墳丘が八角形,凝灰岩を敷石にバラス敷であり,仕切り石(長方形)を挟むことが判明していた.

今回の調査では一部,凝灰岩の敷石が抜き取られていることが分かった(貼り石があったはずだが痕跡のみ)

バラス敷の下から版築層(大規模な造成)→性質の異なる土を交互に敷いて突き固める

牽牛子塚古墳のほど近く,越塚御門古墳からは墓壙が発見された.

→牽牛子塚古墳の版築を壊して作った(土の性質が違う)


◎飛鳥寺西方遺跡

石組溝の発見…一旦埋め立てて作り直した

槻の木の広場を区画するor排水のためか?

平安時代(10世紀)の土師器2枚土器8枚×3の1セット,土師器5枚の1セット発見

→槻の木の広場のその後,特殊な祭祀か?

2石列…飛鳥時代でも古い段階→槻の木の広場以前


長谷川先生は以前参加させて頂いた飛鳥寺西方遺跡の現地説明会でも講師をされていた方である.

あの旅が懐かしい.


「夜の政」

講師:里中満智子氏(漫画家)

藤原仲麻呂が天皇を唐風に“皇帝”と呼ぶようにした→日本の歴史上,女帝は孝謙天皇のみ

推古天皇の名前の由来は「古(いにしえ)を推し量る」という意味で,古事記が記された当時の古代現代(奈良時代)の境目であったのではないか→古事記の最後を飾る天皇が推古天皇

推古朝から正式な外交が始まる…推古天皇八年(600年)遣隋使

日本のように王朝が変わらないと神話・伝説が歴史につながる

古事記…明らかな歴史は箇条書き→このあたりでリセット

日本書紀…外交に使える→漢文


アマテラスは最高神ではあるが圧倒的な力はない

卑弥呼・神功皇后

女性:神の声を聞く

男性:実行する(実務)

天皇は夜に神の声を聞いていたのが昼に政治をするように変化

推古天皇39才で即位→74才まで


里中先生は持統天皇を主人公に据えた「天上の虹」の作者でいらっしゃる.

今回も資料の中に推古天皇と厩戸皇子(聖徳太子)の漫画を寄稿されていた.


「女帝の誕生と推古朝」

講師:吉村武彦氏(明治大学名誉教授)

7世紀初め 推古朝:厩戸皇子・蘇我馬子で語られる

→太子信仰の影響…奈良時代以降10世紀~の人物のイメージ(彫刻・画)

推古天皇…聖徳太子絵伝(鎌倉時代)のイメージ

天皇の歴史

古事記…推古女帝まで,元明天皇へ献上される

日本書紀…持統女帝まで,元正天皇へ献上される


孫への継承:推古天皇→舒明天皇,持統天皇→文武天皇


推古天皇

額田部皇女,豊御食炊屋比売命(シャーマン的)

→古事記最後…推古以前で分ける

541年 誕生

571年 18歳 敏達天皇妃

572年 19歳 敏達天皇即位

575年 22歳 広姫立后(正月),広姫(11月)

576年 23歳 額田部皇女立后


幼名 額田部皇女

額田部連比羅夫が海外交渉…額田寺付近(斑鳩寺の近く)で幼いころ過ごした

→聖徳太子と推古天皇の関係

「姿色端麗しく,進止軌制し」と記される.


即位の事情 一夫一妻多妾制

・欽明天皇の子供世代

・即位の適齢年齢は35歳以上

・孫の世代は20歳前後


欽明朝:百済から仏教伝来

蘇我稲目は受け入れを主張

稲目の邸宅

小治田家(飛鳥寺北方付近):仏像

向原家(豊浦寺付近):寺


推古朝

5世紀「倭の五王」の冊封体制から離脱

607年 「日出(東)処天子」,「日没(西)処天子」

608年 裴世清 国王と対面

    隋書 国王は男性

    →外交においては厩戸皇子…姿を見せない女帝の外交(大殿に推古はいる):隋は国王に会ったことにした


改葬記事

推古元年 用明天皇陵

推古20年 堅媛


推古天皇 薄葬(竹田皇子)


日本の国号 701


飛鳥・奈良時代の人の古代は推古朝までという認識


「パネルディスカッション」

パネラー:里中満智子氏(マンガ家),吉村武彦氏(明治大学名誉教授)

律令制

女官はいない

男性社会

人=男

夫人=女

律令制以前以後で変わった

律令制の常識で日本書紀を考えている

男性中心社会ではあったが,実力のある人がいなければ女性でも構わない


推古天皇:頂点に立っているのは推古天皇

蘇我氏:近代化へ,官僚制までいかなかった

藤原鎌足:仏教,儒教に関心(中臣は神祇の家柄)

藤原不比等:官僚制へ(蔭位の制度など制度化した)


「姿色端麗しく,進止軌制し」と書かれた推古天皇と元正天皇のみ

→当時の人からすると本当に美しかった

終身王位制→大化の改新まで

幼帝は天皇制がしっかりしないと難しい(誰がなっても構わない)


新しい視点が得られた講演会であった.

来年も飛鳥を翔けた女性たちを取り上げるのだろうか.

来年も楽しみにしたい.


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by Allegro-nontroppo | 2016-07-18 22:20 | 講演会,シンポジウムなど

第107回大和考古学講座 「5~6世紀の渡来系集団と朝鮮半島の前方後円墳と埴輪」

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107回大和考古学講座 「56世紀の渡来系集団と朝鮮半島の前方後円墳と埴輪」を受講させて頂いた.
講師は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館学芸課長の坂靖氏であった.
場所は江戸東京博物館である.
毎回,この博物館を見るたびに本能的に耐震構造を心配してしまう自分がいる.
もちろん,余計な心配だということはわかっているのだが….
以下,勉強になった部分をまとめてみる.


楽浪土器出土地域(海外交渉を示す)

・三韓,濊

・対馬

・壱岐

・北部九州

→近畿では出土しない


楽浪との交渉は北部九州

伊都国

三雲・井原遺跡

三雲・番上遺跡→30点以上の楽浪土器,硯の発見

↓ 楽浪との交渉の移行

奴国

比恵那珂遺跡群

楽浪系土器~三韓系土器(楽浪郡が高句麗の手におちる)が出土

→纒向遺跡は比恵那珂遺跡群の半分程度の面積,楽浪系土器が出ない,対外交渉していない


ホケノ山古墳の時代

庄内期(邪馬台国時代)

大阪平野 北部九州の集落規模と比較して小さい


布留期

集落規模が拡大し,大型前方後円墳が造営される

朝鮮半島南部との交渉(中国とは直接交渉しない)

鍛冶生産の開始

…ヤマト王権の王都

纒向遺跡90次調査ではタタキとスジの入った土器…金海・プサン製

→鉄器生産技術…博多と纒向で同じ鞴の羽口が出土

人がやってきて技術を教える,盛んに往来しているが国と国の外交ではない???


ホケノ山古墳 副葬品 邪馬台国より後の時代

・画文帯同向式神獣鏡

・大型内行花文鏡

→鏡はカケラ,作られた時代は卑弥呼~後の時代…もってきたのはもっと後の時代

近畿…交渉は卑弥呼より後の時代(西晋)で朝鮮半島を通じてつながった


56世紀

倭の五王 南宋…冊封体制

34世紀 渡来系集団の痕跡=稀薄(三韓系土器から)

56世紀 大量に人がやってくる(北河内遺跡,長原遺跡,名柄遺跡,布留遺跡)

5世紀以降 朝鮮半島系渡来集団がたくさんやってくる→豪族による技術の移植


百済の都

475年 ソウル…漢城百済は実質,滅びる

475538年 公州

538660年 扶余 

どんどん南下していく


前方後円墳及び埴輪の出土地域,渡来人の出身地は栄山江地域,伽耶地域が圧倒的多数

政権所在地の土器は全くでない.


463年 雄略紀

実際には政権に関わりのない人々が自由に往来できる→倭が取り込んでいく

飛鳥に渡来人を住まわせる→渡来人の技術で王権の力が強くなる→最終的に都がおかれる


◎葛城氏の私的外交と渡来系集団

日本書紀 神功皇后摂政53

葛城襲津彦が新羅の草羅城を攻め落とし,捕虜を連れ帰った(桑原・佐糜・高宮・忍海の4邑の漢人の始祖).

・葛城「氏」は存在しない

・葛城の地域集団は独自交渉を行った

・様々な地域の自由往来の渡来人を獲得した

・渡来人の技術力を背景にヤマト王権と対峙した


室の宮古墳

4人ほど葬られている→襲津彦のモデル?

名柄遺跡

新羅の土器が出土

継体天皇と武寧王


隅田八幡宮(和歌山県橋本市) 国宝 人物画像鏡の銘文

503年,仁賢天皇の年,即位前の継体がヤマトの忍坂宮におられたとき,武寧(=斯麻)が長く仕えるために…


武寧王墓碑;武寧王=斯麻…日本書紀と合致

日本列島にしかないコウヤマキの木簡の出土


継体天皇は即位前から武寧王と繋がっていた???


今成塚古墳

継体天皇の地盤…淀川北岸,近江,越前,愛知(夫人・尾張目子媛)

河内馬飼氏…継体天皇擁立に力を貸した,後の額田部氏

額田部狐塚古墳…尾張型埴輪

中町西遺跡…百済(馬韓)土器

→日本書紀とは書きっぷりが違う

裴世清…額田部連比羅夫

額田部氏

氏寺:額安寺

外交集団,遣隋使を迎える集団



朝鮮半島南西部の前方後円墳

→武寧王をバックアップした集団,ただし12基それぞれ独立していた国家とは無縁の権力層

羅州には前方後円墳はないが古墳はたくさんある…周辺地域のトップがいた

6世紀前半の短期間に日本との深い関係から築造

政権周辺部中央部からはなれた場所で倭と百済を結ぶ役割を担った人

倭へ渡来系集団を輩出した在地首長層


朝鮮半島の埴輪

前方後円墳より少し広い範囲に分布しており,タタキとよばれる技術を使用している

99.9%は半島でつくられた


鉄器生産→送風管:最新技術ではなく周辺技術のみ移植される

搬入品をみながら作った

埴輪の形態は在地の器台形と円筒埴輪の折衷

朝顔型埴輪はアレンジされている

壺形埴輪(底部有口壺)はホケノ山古墳に影響

楽浪土器を期限として,韓半島で独自に進化した?


埴輪の性格

・日本列島が原型

・様々な地域と関係する古墳地点で採用される

・日中韓を結ぶ海外交通の要衝で多様な層が採用

46世紀の長期間に及ぶ対外交渉の成果


5世紀 渡来人は王権,地域集団の権力の源泉

国家間関係→紀の歴史観

渡来人の獲得は個別外交,私的外交,独自外交

→ヤマト王権と対峙する地域集団の実態

自由往来の海洋民,生産工人の介在


6世紀後半

朝鮮半島西南部 前方後円墳→百済と倭をむすんだ

6世紀半ば

百済滅亡


継体天皇と武寧王の話など興味深い話が聞けて大変おもしろかった.

大和考古学講座はなかなか予定が合わず参加できないことも多いが,機会があれば参加を検討したい.


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by Allegro-nontroppo | 2016-07-16 21:28 | 講演会,シンポジウムなど

第10回~12回 夕星万葉

10回~12回の夕星万葉を受講した.

本年から持統天皇代に入っていく.

以下に万葉集を読んでいく際に気を付けたいポイントをメモしておく.



第10回 「『万葉集』巻1(28番歌)持統天皇代①」

講師:小倉 久美子 氏(奈良県立万葉文化館主任研究員)


天皇の御製歌
二八番歌

春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香久山


・季節感をあらわしたもっとも古い歌

・天の○○とつく山は香久山だけ.天から降ってきた山(伊予国風土記逸文).当時,死は神聖なものであったので,香久山にたくさんの屍があった(四二八番歌)

・衣を乾した理由としては「衣替え」説,「神事につかう衣」説などあり



第11回 「『万葉集』巻1(2933番歌)持統天皇代②」

講師:大谷 歩 氏(奈良県立万葉文化館 主任技師)


近江の荒れたる都を過ぎし時に,柿本朝臣人麿の作れる歌
二九番歌

玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御世ゆ(或は云はく,宮ゆ)生れましし 神のことごと 樛の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを(或は云はく,めしける) 天にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え(或は云はく,空みつ 大和を置きて あをによし 奈良山越えて) いかさまに 思ほしめせか(或は云はく、おもほしけめか) 天離る 夷にはあれど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめけむ 天皇の 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる(或は云はく,霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる) ももしきの大宮処 見れば悲しも(或は云はく,見ればさぶしも)


反歌

三〇番歌

ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ

三一番歌

ささなみの志賀の(一は云はく,比良の)大わだ淀むとも昔の人にまた逢はめやも(一は云はく、逢はむと思へや)


高市古人の近江の旧都を感傷して作れる歌(或る書に云はく,高市連黒人といへり)
三二番歌
古の人にわれあれやささなみの故き京を見れば悲しき

三三番歌
ささなみの国つ御神の心さびて荒れたる京見れば悲しも

・柿本人麻呂の一番最初の歌で「近江荒都歌」ともよばれる

・戦乱で滅びた都を思う歌は中国にたくさんあるが,日本では近江朝がはじめて

・現人神としての天武・持統天皇(日の運行,暦の掌握)

・「いかさまに思ほしめせか」で感情が挿入されている

・生命力あふれる春草と荒都の対比

・古の人:近江朝世代の人?,新しい時代に迎合できない

・近江朝も戦勝祈願したに違いないが,神がうらさびてしまった



第12回 「『万葉集』巻1(3435番歌)持統天皇代③」

講師:井上 さやか 氏(奈良県立万葉文化館 主任研究員)


三四番歌

白波の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ(一は云はく,年は経にけむ)


三五番歌

これやこの大和にしてはわが恋ふる紀路にありといふ名に負ふ背ノ山


・三四番歌は有間皇子の挽歌を想起させる

・三四番歌の作者川島皇子は大津皇子の事件での密告者

・日本書紀は有間皇子に同情的(絞刑までのスピードが速い)

・日本書紀は大津皇子事件の際の大津皇子妃の死を中国の無実の謀反罪で亡くなった人の妃と同じ表現で記載している

・大化の改新の詔で畿内の南の境は背ノ山となった

・妹山との対比の背ノ山


毎回勉強になる講座である.

来年もぜひ受講したい.

(今年もまたやってほしいと思う)


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by Allegro-nontroppo | 2016-07-10 22:26 | 講演会,シンポジウムなど

第29回~31回 万葉古代学東京講座

29回~31回の万葉古代学東京講座を受講した.

以下に今後,万葉集,懐風藻,日本書紀,そして古今和歌集を読んでいく際に気を付けたいポイントをメモしておく.


第29回 「万葉歌と懐風藻」

講師:大谷 歩 氏(奈良県立万葉文化館 主任技師)

懐風藻について

・万葉集より先に成立している

・作者には僧侶や渡来系氏族(大陸系移民)の氏族が多くいることが特徴

・天智朝においては置醴の遊びが開かれていた(君臣和楽)

・葛野王「鶯梅」の表現…中国では見られない表現が創造され,和歌へと波及していく(万葉集 春秋判別歌:漢詩の宴で詠まれた?)

・良辰,美景,賞心,楽事の詩の理念

・謝霊運…懐風藻に影響を与えた


第30回 「万葉集と日本書紀」

講師:井上 さやか 氏(奈良県立万葉文化館 主任研究員)

・万葉集の左注には日本書紀(日本紀,紀)の引用がみられる(17例)

・引用は巻一と巻二のみである

・日本書紀を検ふるor案ふると記載されている場合はやや詳しく書かれている.

・左注には疑問も書かれており,歌が構成された時代と左注が書かれた時代が異なっている可能性が高い(作者の違い)

・朱鳥六年,朱鳥七年は日本書紀にない年号であるため,左注作者は現存の日本書紀とは異なる「日本書紀」を閲覧していた可能性がある.

・左注には伊予国風土記逸文を参照したと思われる形跡あり(五番,六番歌)


第31回 「万葉集と古今和歌集」

講師:小倉 久美子 氏(奈良県立万葉文化館 主任研究員)

歌語「藤衣」の変遷

・柳田圀男「木綿以前のこと」によると,古代の「フヂ」は葛類全体の総称であった.蹴鞠のあそびで履く袴は必ず葛布であった.

・万葉集での「藤衣」は海女の着物であった(水はけがよい).このイメージは後撰和歌集にも継続された

・古代では荒栲の布衣が「卑」とされたが,他は植物性でも丁寧に作られれば「尊」であった(正倉院に葛布半臂一領が納められていたことが「申所盗物事」より分かる.他,御堂関白記の相撲長の衣や中右記の華やかなお土産などにも葛衣・葛布が使用されていた).

・高市皇子の挽歌や令集解には喪服は「白」であれば素材は問わないことが分かる

・古今和歌集八四一番歌で藤衣が喪服として詠われている

・西宮記では素服(喪服)は鈍色の貲布と記載されており,変化している

・万葉集一五九番歌では荒く織った衣で悲しい気持ちを表現している

・古今和歌集の時代でも実際には喪服としては麻の衣を着ていたが,歌の表現として藤衣を使ったか

・藤衣から喪に服している状態を藤の花と表現するようになっていったか


懐風藻に関してはなかなか勉強できるチャンスも資料も少ないので本当にいい経験になったと思う.

実は,万葉集を勉強してみようとしているところなのでこれからの勉強の中での注目ポイントが分かってよかった.

次回は夕星万葉講座をまとめたい.


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by Allegro-nontroppo | 2016-07-05 02:05 | 講演会,シンポジウムなど