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尾形光琳没後三〇〇年記念 光琳とその後継者たち@畠山記念館

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「尾形光琳没後三〇〇年記念 光琳とその後継者たち」を鑑賞に畠山記念館に出かけた.

畠山記念館は初めてだったが,茶室などに飾られているように展示できるように設計されており,画家の意図したように鑑賞できるのが素晴らしいと思う.

今回は列品解説に立ち会えたので,それらも含めて印象に残った陳列品について記しておく.


禊図 立林何帠筆

尾形光琳の「禊図」の構図を横長に展開しているとのことである.

「伊勢物語」第65段を絵にあらわしている.

光琳の「禊図」をどこかで鑑賞させて頂いたと記憶しているが,構図の縦横で川の流れの勢いが違うような気がする.


立葵図 尾形乾山筆

尾形兄弟が好んでモチーフとした立葵図である.

写実的というより,どこかデザイン画的である.

また,上部に書かれた漢詩から,立葵が牡丹や芍薬に並ぶほど美しいと乾山が考えていたことが分かるのが,面白い.


共筒茶杓 銘 寿 尾形光琳筆

寿の銘と中国では吉祥文とされる蝙蝠と霊芝が描かれている.

光琳は工芸品も手掛けていたとは知っていたが茶道具までも作っていたのは知らなかった.


紅葵花蒔絵硯箱 尾形光琳作

光琳の好んだ立葵と八重葎が全体を覆っている.

立葵の蕾は螺鈿で満開の花は錫で表されているというのが,本阿弥光悦の手掛けた硯箱を思い出させる.


立葵図 鈴木守一筆

鈴木守一は鈴木其一の長男ということである.

尾形乾山と「立葵」という同じモチーフながら写実的で葉が裏返っていたりと,印象が異なっており楽しい.

白梅模様小袖貼付屏風 尾形光琳筆

光琳梅が配された小袖を屏風に貼付られている.

実際に身にまとったときに,帯からも枝が伸びているように描かれているというところが光琳の凄さではないかと思う.


四季花木図屏風 渡辺始興筆

渡辺始興の名はテレビ番組「なんでも鑑定団」などでよく聞いてはいたが,実際にこの目で鑑賞したのは初めてである.

琳派の画家とは知らなかった.

確かにたらしこみなどの技術が見受けられるし,右から左へと季節が移り替わるように植物が配置されているのは琳派ぼいと思う.

本草学の知識があったそうでリアリティがある.


以上,概略である.

今年は昨年ほどは琳派作品が見られないと思っていたので,この鑑賞の機会が嬉しい.

後期展示でも素晴らしい作品が登場するようで,是非見に行きたいがちょっとスケジュールが厳しそうである.


追記

庭園も素晴らしかった.

季節によって様子も変わるのだろうか.

機会があったら見てみたい.

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by Allegro-nontroppo | 2016-04-24 22:25 | 博物館

今,書きたいこと

この記事は古代史や博物館・美術館に関するものでございません.

どうぞ読み飛ばしてください.



私が今回の熊本地震の一報をうけたのは親からのメールであった.

内容は,

「今,鹿児島にいる.無事だが,明日,新幹線で帰れるか心配している」

というものである.

テレビをつけてはみたが,大きい地震が起きたらしいことは分かったものの,夜では被害の全容が分からず,危機感が全くなかった.

福岡西方沖地震よりもひどいことはなかろうと楽観的なことを考えていた.

朝になり,とんでもないことになっていることを知った.

しかし,熊本空港も翌日には利用できるようになるとのことであったので,ある意味安心したところではあったのだが….


大きな地震が今も続き,被害は大分にまで拡大し,犠牲者や避難者の方々は増えていく一方である.

また,熊本空港は閉鎖,九州新幹線は不通,鹿児島本線などの在来線や九州自動車道などの高速道路も一部不通のままである.



私は福岡出身で人生の半分以上を福岡で過ごした.

親や親戚も大半は福岡で暮らしている.

兄弟は今は鹿児島暮らしである(彼は鹿児島に移る前は熊本市にいたのだ).


年の近いいとこ家族は熊本市のすぐ近くで暮らしているらしい.

とりあえず,無事は確認できたが,今はどうしているだろう.

いとこの奥様には「神社巡りが好きなら,いつか阿蘇神社に連れて行ってあげる」と言っていただいたことがある.

その阿蘇神社も大変な被害を受けてしまった.


学生時代には熊本出身の友人と机を並べて講義を受けたのだが,卒業後は疎遠になってしまった.

もしかしたら,疎遠になってしまったクラスメイトが熊本で避難生活をしているかもしれない.

幼少期より,熊本市には何度も遊びに行ったことがある.

昔,見上げた熊本城の姿が変わり果ててしまったのを知ると悲しい.

大分だってドライブで何度も訪れたことがあるのだ.


いろいろ考えはじめると,精神的に落ち着かなくなる.

どちらにしろ,今の私には私の仕事がいずれ熊本や大分の人々にも役に立つこともあると信じて仕事に向かうことしかできないだろう.


いずれ募集されるボランティア参加も難しいだろうが,きっと次の長期休みには熊本に行きたい.

江田船山古墳はじめ,興味深い場所がたくさんあるのだ.


最後に犠牲者のご冥福,避難されている方々の少しでも早い平穏,そして一刻も早い復興をお祈りいたします.


今回の記事は駄文中の駄文で申し訳ありませんでした.
本当はもっと違う記事を書こうと思っておりましたが,今,書きたいことを優先しました.

最後までお付き合いくださりありがとうございました.


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by Allegro-nontroppo | 2016-04-17 22:32 | あれやこれ

國學院大學博物館 2016年春

今回も3月中の出来事をまとめておきたい.

特集展示「山岳信仰の考古学―山を仰ぎ、山に登る―」及び特集展示「穂高古墳群 F9号墳 ―考古学実習速報展―」を見に國學院大學博物館へ出かけた.

表参道に用事があったのだが午後も早い時間に済んでしまったので,すこし足を延ばすことにしたのである.

また,昨年から海の信仰や山の信仰に興味があること,それから安曇野(穂高地域)の歴史について友人から尋ねられたことから機会があれば鑑賞したいと思っていたのである.


以下,概要.

特集展示「山岳信仰の考古学―山を仰ぎ、山に登る―」

修験道(奈良・金峯山寺)について

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修験道は神祇信仰や山林仏教などの影響を受けて成立した日本独特の山岳信仰である.

古来,水源やランドマークとしての山に対する信仰は,山麓祭祀に止まっていたが,8世紀頃から山頂祭祀が認められるようになり,山林仏徒による奈良県金峯山などの山岳登拝も活発化した.

10世紀になると,峰々を巡る山岳練行が各地の霊山ではじまり,11世紀頃に修験道の独自性が確立したとのこと.


建鉾山遺跡について

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建鉾山の麓に所在し,古墳時代中期に営まれた祭祀遺跡で点在する磐座の周辺からは多数の財や石製模造品,土師器が出土している.

また,福島県棚倉町に鎮座する馬場都都古和氣神社の旧社地と伝わる禁足地でもあったとのこと.


個人的な感想であるが,簡潔にまとめられているように見えて,重要なことがたくさん含まれている解説文だと思う.

今後,山岳信仰を考えていくうえで参考にしたい.


特集展示「穂高古墳群 F9号墳 ―考古学実習速報展―」

F9号墳について

6世紀後半築造の横穴式石室をもつ円墳

・長さ約7m,幅約 1.31.5mの石室をもつ

・土師器・須恵器・直刀・水晶製切子玉などが出土している

・今回の調査で馬具や鉄鏃が出土した


安曇族の歴史などが解説されているかと期待していったのであるが,考古学実習の詳細についてがメインであった.


常設展

考古ゾーン

挙手人面土器

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長野県・片山遺跡で出土した(片山遺跡は古墳時代前期の土器が大石の下に埋納されていた特殊遺跡とのこと),古墳時代前期の土器で類例がないとのこと.

人面土器はオホゲツヒメの信仰との関わりについて考えたくなる.


山ノ神遺跡復元模型

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今回は写真を撮ったので貼っておく.

感想などは前回訪問時(國學院大學博物館)に書いたので省略する.


神道ゾーン

石清水八幡宮供花神饌

供花神饌は915日に行われる石清水祭で供えられる.

石清水祭は江戸時代まで石清水放生会とも呼ばれ旧暦815日に行われていたそうである.


石清水八幡宮には参拝したことがないので,一度は行ってみたい場所である.

やはり,石清水八幡宮にも仏教の影響が残っているのだと知った.


企画展「中世の古文書をよむ」

久我家文書が多数展示されていた.

先日の鎌倉散策で興味をひいた足利尊氏,義詮,義持や後醍醐天皇や北畠親房などの文書が展示されており,興味深く鑑賞させて頂いた.

綸旨などが書かれた紙は灰色の「宿紙」という使用済みの紙を漉き返して作った再生紙を使用するような決まりがあることも初めて知った.


以上,感想である.

國學院大學博物館は大きな博物館ではないが古代史好きとしてはまた訪れたくなるところである.

今後も展示予定を確認し,機会があれば講演会など参加したい.


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by Allegro-nontroppo | 2016-04-10 21:58 | 博物館

總持寺と横浜市歴史博物館

4月に入ってしまったが,319日のことを書きたい.

この日は横浜市歴史博物館の歴史講座に申し込みをしたので,博物館の見学と以前から興味のあった總持寺の見学に充てることした.

以下,感想である.


總持寺

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下写真は大祖殿である.
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正式名は諸嶽山總持寺,永平寺とならぶ曹洞宗の大本山である.

元亨元年(1321年),瑩山律師禅師によって開かれた.

元は能登軍櫛比荘にあったが,明治三十一年の大火を契機に現在の横浜市鶴見に移転した.


以前から,この總持寺には後醍醐天皇が祀られているという話を聞きかじっており,なぜ横浜のお寺に…?と疑問であった.

後醍醐天皇はじめ後村上天皇、後奈良天皇、後陽成天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各ご尊儀は御霊殿にご奉安されているそうである.

總持寺のHPによれば御霊殿は,

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昭和12年(1937)、後醍醐天皇の600年御遠忌を記念して建立されました。

後醍醐天皇は、太祖・瑩山禅師の高い徳風の評判をお聞きになり、信仰上の10か条にのぼる疑問を提示されたところ、禅師は見事にお答えになったことから、元亨2年(1322)、「曹洞出世の道場」の綸旨を下賜され、總持寺は官寺に昇格しました。

とのことで,後醍醐天皇が崩御する前からのつながりがあったということで,納得できた.


立派な大黒天も祀られており,後醍醐天皇との関わりを感じずにはいられない.


訪問時には佛殿にて「開祖瑩山紹瑾禅師七〇〇回,二祖峨山韶碩禅師六五〇回大遠忌記念 禅と心のかたちー總持寺の至宝―旗揚げ展」が開催されていたため,鑑賞させて頂いた.

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重要文化財 刺繍獅子吼文大法被

毎年十月十五日の御両尊御征忌会の最終日に大祖堂で行われる總持寺貫首による問答の際に使用されるとのこと.

獅子の吼える様子は釈迦が説法する様子をたとえているそうである.

実際に十月十五日に使用されている様子を見てみたいものである.


横浜市指定文化財 前田利家像

重要文化財    前田利家夫人像

幅のように作成されているものの,利家像は夫人像に比べ,筆致や造形感が一歩譲っているそうである.

また利家像には夫人像にある賛もない.

夫人像はテレビや本などで目にした記憶があるが,本物がこちらにあるとは知らなかった.


その他,貴重な名宝の一部を鑑賞することができた.

また,仏殿にお祀りされている釈迦牟尼如来,脇侍として迦葉尊者,阿難尊者に近くで手を合わせることができた.


横浜市歴史博物館

歴史講座・古代

ある数奇な歴史書―当館所蔵「本朝世紀」をめぐって

本朝世紀は六国史の次に歴史書であるが未完のまま終わってしまったということで,知名度もあまり高くないそうだ.

恥ずかしながら本朝世紀という名は初めて聞いたので,せっかくならば講座に参加させて頂こうと横浜までいくことにしたのである.

講師は横浜市歴史博物館 学芸員 柳沼千枝氏であった.

本朝世紀の編者は信西(藤原通憲)である.

信西は藤原・南家末流の学者の家柄の生まれであったが幼くして父を亡くしたために高階家の養子となったので家業を継ぐことができなかった.

鳥羽院へ接近するものの,官位は上がらず出家し,後,信西となる.

妻が乳母として仕えた後白河天皇が即位することとなり,起こった保元の乱に勝利をおさめ,信西政権を固めるにいたるも,後白河天皇が退位し,反信西派が形成され,平治の乱で命を落とした.

信西が急死したことにより,本朝世紀は未完の歴史書となった.

(宇多一代のみ完成,醍醐~近衛十七代分が未定稿として朝廷に存在していたが焼失)

太政官の公日記である外記日記(公務参考用の記録)としてのかたちが残っている.


南北朝時代,持明院統の皇室文庫が北朝三代崇光天皇に継承されるが,動乱の中で崇光天皇が南朝方に拉致された間に弟の後光厳天皇が即位する.

崇光天皇は都に復帰するが,皇位は戻らず皇子栄仁親王が伏見宮家を設立し,持明院統の正嫡として文庫を保持していくことになり,伏見宮蔵書(本朝世紀も含まれる)となった.


以上のような説明を受けたところでミニコーナー展示の「本朝世紀」横浜市歴史博物館本を見ることとなったが,字配り・書体,そして欠損部分に至るまで忠実に伏見宮本を再現されていた(複本作成者 伏見宮家従 浦野直輝)

新しいものをどんどん取り入れよう,諸外国礼賛の時代にこのように古いものを残すべきという意志を持った人がいたというのは本当に素晴らしいことだと感じた.


常設展

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横浜市の歴史について俯瞰して学べるように展示されていた.

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最近気になっているヒスイの流通についても(縄文時代に糸魚川からムラづたいの交流で手にいれていたとのこと)パネルの説明があって,興味深く見させていただいた.

横浜には弥生人が移住してきたというのも面白い.

どこからやってきたのかはまだわかっていないとのことである.

横浜というと幕末以降開けた土地だというイメージであったが,その前から人口は少なくとも人は住んでいたわけで,海沿いということもあり,昔の人々の交通などを解明するには重要かもしれない.

中世以降の展示も充実していた.


企画展 称名寺貝塚 土器とイルカの縄文人

称名寺貝塚は横浜市金沢区に位置する貝塚である.

特徴としては貝類の他に魚類(ボラ,マダイ,クロダイ,スズキ,マグロ類など),ニホンジカ,イノシシ,イヌ,タヌキ,そしてイルカ類(バンドウイルカ,マイルカ,オキゴンドウ)が出土していることである.

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イルカ猟は縄文時代後期初頭には行われており,縄文後期中頃を境に数が激減し,後期末から晩期中頃にはイノシシと特にシカが多くなる.

これは古平潟湾の変化(狭くなった)ことにより,イルカが入ってこられるような内海でなくなったことが影響しているとのことである.

イルカを仕留めるには銛漁法が中心であったようである.

また,イルカの頭が裏返された状態で並んで出土し,骨の表面に必要以上の無数の打撃痕が残っていたため,何らかの風習があったと考えられる.


もう一つの特徴としてはその名の由来ともなった称名寺式土器である.

こちらも多数展示されていた.

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以上である.

なかなか充実した1日であった.

ただ,横浜市歴史博物館横の大塚・歳勝土遺跡公園にまで足を延ばす時間が足りなかったのが残念であった.

機会を見つけて,博物館の歴史講座への参加や遺跡公園の見学など行いたい.


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by Allegro-nontroppo | 2016-04-03 20:42 | 旅行記