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「大和を掘る32 -2013年度発掘調査速報展-」へのいざない

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「大和を掘る32 -2013年度発掘調査速報展-」へのいざない を受講した.

講師は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館主任学芸員の小栗明彦氏である.

今回は,「大和を掘る32 -2013年度発掘調査速報展―」(公式HPはこちら→)の企画を行った小栗氏による展示解説ということだ.


さっそく概要である.


史跡 東大寺旧境内(第157次調査)

天平年間の須恵器の壺一個が穴の中に納められていた.

出土位置が大仏殿中軸線と北の築地塀(山堺四至図より)の交わる所であったことから地鎮の一種であったと思われる.

壺の中には「和同開珎」五枚が入っていたことも裏付けとなる.

詳しい報道発表はこちらのHPまで→


纏向遺跡(第177178次調査)

纏向遺跡の範囲とは考えられていなかった場所から土器(古墳時代初期)が出てきた.


纏向遺跡の重要性とは?

日本の国(この場合は国民国家・Nation)がいつごろできたのか.

国民国家とは

1. 明確な領土をもつ.

2. 中央政府をもつ.

3. 官僚がいる.

4. 遠方の国と交易がある.

5. 都市がある.

「都市」は古墳時代にできたと考えられている.

日本で「初期国家」の証拠となる初めての「都市」は纏向遺跡ではないかと考えられている.

「都市」には遠くから人々が集まってくる.

証拠となるのは土器の種類である.

纏向遺跡では中国地方から駿河ぐらいの特徴を持つ土器が出土している.

人が移動している証拠である.


今回は名古屋地方の特徴をもつ土器が発掘された.


秋津遺跡(第7次調査)

場所は御所市.葛城地方である.

竪穴住居が発掘された.

奈良県内ではあまり見つからないので珍しい.

土器を利用した炉の跡が発掘された.

その他,土器や管玉(日本海側からしかとれない)も発掘されている.


十六面・薬王寺遺跡(第31次調査)

いろいろな時代の遺跡が発掘されている.

石鋸(石を石で切る道具と発表されているが管玉を磨く道具の可能性あり),水晶製の錐(玉に穴をあける)など珍しい遺物が出土している.

石材剥片(勾玉をつくる途中)・勾玉・玉類など出土していることから「玉つくりの遺跡」であることが分かる.

その他に鏡形の模造品や土器も出土している.


広瀬遺物散布地

工事をしている時に遺跡が出てきた.

このような場合は簡単に遺物を拾ったり,図面を書いたりする.


ここでは古墳時代の土器が多数出土した.

珍しいのは船形埴輪(四枚の隔壁板の飾り部分のみ・4世紀).

その他,蓋形埴輪,盾形埴輪,甲冑型埴輪など.


特別史跡 巣山古墳(第
14次調査)

大正15年に特別史跡に指定された前方後円墳である.

墳丘だけで220mある.

この巣山古墳と同時代4世紀末~5世紀初期に築造された同規模の前方後円墳は巣山古墳をいれて4基しかない.

巣山古墳は天皇陵には指定されていないが被葬者は王族であると考えられる.

また,場所としては葛城地方にある.

今回の調査は古墳のまわりの堀の護岸・復元工事をしながら調査をすすめているところである.

発掘されて復元された「円筒埴輪」(92cm・鍵手紋)と「朝顔型埴輪」は今回の展示のメインでもある.

他に,家形埴輪も発掘された.


円筒埴輪の重要性

同時代の古墳のサイズを比べて,どれが大王の墓か決める.

このとき時代を特定するものとして副葬品が挙げられるが,大抵の場合は盗掘にあっている.

埴輪は古墳を掘らなくても見つけることができる.

→今後,時代の順番を確認する際は埴輪を比較することになる.

小さい古墳は大きい古墳をまねて作るので,基準となるのは大きい古墳の埴輪である.

・時代が古い「円筒埴輪」ほど,帯と帯の間が広く,また穴が四角である.

・時代が新しい「円筒埴輪」は帯と帯の間が狭く,穴が丸い.

→これは作るたびに10%ずつ縮小されているためか?


「朝顔型埴輪」はもともと「円筒埴輪」に壺がのっていたのがくっついたものである.


斑鳩大塚古墳

堀から埴輪(大きい古墳の埴輪をまねて作ったもの)が発掘された.

この遺跡から以前,「斜円二神二獣鏡」と「四獣鏡」が発掘された.

「四獣鏡」は鈕に「ひも」が入ったまま錆びている.

これは「ひも」を通して使っていた証拠である.


椿井遺跡(第45次調査)

須恵器について

西暦400年頃,須恵器が日本に入ってきたというのが最近の主流.

・朝鮮半島では好太王が領土を広げていた時代

・同時代の朝鮮半島の須恵器と日本の初期の須恵器に似ている.

→朝鮮半島の混乱の中で,人々がたくさん日本へ渡ってきた.

*以前は古事記or日本書紀の雄略天皇代(須恵器造りの記事がある)と思われていた.


今回の発掘では日本で須恵器が入ってきたばかりのものがでてきた.

また,滑石製品が一緒に出てきた.

傾向として,初期の須恵器と滑石製品は一緒に出てくる.

また,奈良時代の墨書土器「□女」が発掘された.

796年初鋳「隆平永宝」も発掘された.


宮山北1号墳

葛城襲津彦の宮山古墳の近くにある.

襲津彦の一族の墓で埴輪が発掘された.


久渡2号墳

高市皇子の墓とも言われたことがあるが,出土の須恵器や石室から鑑みるに時代に50年程差がある.

7世紀中頃の王族の墓.


史跡名勝 飛鳥京跡苑地(第8次調査)

砂利石が抜けている場所があった.

→柱の跡→発掘してみたところ,穴があった.

建物が池の上にあって,もともとは島がなかったと考えられる.

また,発掘された飛鳥時代の柱は色が変わっている部分があり,池の水の深さが分かる.

池が機能していた78世紀の土器と池が埋まった13世紀の土器が発掘された.

詳しい報道発表はこちらのHPまで→


史跡 法隆寺旧境内・斑鳩宮跡(法隆寺塔頭北室院の調査)

三彩の小壺や土器が発掘された.

鵤寺と墨書された土器片(8世紀後半)が発掘された.

→奈良時代の書物には「鵤」の漢字で記載されたものがあったが,出土資料としては今回初めて発掘された.


南六條北ミノ遺跡

畑の畝や田んぼの区画跡が発掘された.

→条里制の痕跡か???

その他,土器,土馬が発掘された.

また,現在とほぼ変わらない形の鎌(9世紀)が発掘された.

和同開珎,神功開宝,延喜通宝も出土.

役人が身に着けていた石帯も発見された.


特別史跡 平城京跡(東院地区の調査)

光仁天皇が「楊梅宮」にて宴を催したとされているが,その跡らしきものが発掘された.

また,宴を催した証拠となる大皿が出た.


西大寺旧境内

西大寺式の瓦や三彩の皿が出土した.


東大寺旧境内

三彩の鉢が出土した.

また,恭仁京で使われていた平瓦(真依刻印・瓦を作った人の名前)が出土した.


大塩城跡

墓,骨蔵器,簪,永楽通宝,石仏が出土した.


重要文化財 長福寺本堂

輪宝,舎利(水晶製),玉,金箔,銀箔が出土した.


奈良町遺跡

犬のおもちゃが出土した.


以上である.

基本的な知識を交えながらのガイドだったので,非常にためになった.

今後,遺物を鑑賞する際,ポイントとなりそうである.

今回の講義で印象に残ったのは纏向遺跡の重要性についてである.

一般はともかくとして,学者レベルの人たちでさえ,まず纏向遺跡は邪馬台国あると主張しているようだが,小栗氏はその重要性は卑弥呼ではないと断言しておられた.

邪馬台国について興味がつきないのは分からないでもないが,やはり纏向遺跡はヤマト王権とのかかわりについて確認するのが先決で,そこに卑弥呼や邪馬台国がどう絡むか考えるのが正しい筋道ではなかろうか?

卑弥呼や邪馬台国よりもこの日本がどのように成り立ったかを解明することが重要だと思う.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-29 19:25 | 講演会,シンポジウムなど

大和三山 男か女か ー万葉集 巻一 十三~十五番歌からー

夕星万葉 「万葉集」巻一 斉明天皇代③を受講した.

講師は奈良県立万葉文化館主任研究員 小倉久美子氏である.

この講座はシリーズもので,前回の受講記事はこちらである.

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中大兄(近江宮に天の下知らしめしし天皇)の三山の歌一首


十三番歌

香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬をあらそふらしき


反歌

十四番歌

香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原


十五番歌

わたつみの豊旗雲に入日射し今夜の月夜さやけかりこそ


「右の一首の歌は,今案ふるに反歌に似ず.ただ,旧本にこの歌を以ちて反歌に載す.故に今なほこの次に載す.」また紀に曰はく「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に天皇を立てて皇太子となす」といへり.


今回も
雑歌(旅の歌など公の場で歌われた歌)である.

タイトルや左注によれば,中大兄皇子(後の天智天皇)が皇太子時代に作った歌である.


今回のタイトルでは「中大兄」となっており,「皇子」とは書かれていない.

「大兄」は皇位継承権の一番高い人につけられる名前とみられ,日本書紀 舒明天皇二年(六三0年)条にも例が見られる.

また,日本書紀 皇極天皇四年(六四五年)六月では「中大兄」となっており,「皇子」と書かれていないことが分かるので,今回のタイトルが特別な例というわけではない.


十三,十四,十五番歌は三山=大和三山の歌ということで,歌に詠みこまれているが,この三山の性別がそれぞれどちらなのか,まだはっきり分かっていないということである.


例えば十三番歌の「ををしと」の意味が「雄々しいと」であれば,香具山=女耳梨山=男畝火山=男となる.

この説は「萬葉集註釈(仙覚抄)」(鎌倉時代)からの説である.


また,「ををしと」の意味が「を惜しと」であれば,香具山=男耳梨山=男畝火山=女となる.

これは折口信夫の説だ.

「ををしと」の原文は「雄男志等」であるので一見,仙覚の説が正しいように思えるが,万葉集巻第六・九三五番歌にも「雄」を助詞として使用している例がある.

また,万葉集巻第五・八九三番歌十・二三0三番歌では十三番歌と同じように助詞の「を」の後に形容詞が来ている.

さらに,万葉集巻八・一五八一番歌には「惜し」の例も見られる.

以上のことを折口信夫は自説の根拠としている.


このような説がある中で小倉氏によれば,十三番歌で「かくにあるらし」とあるために,すでに流布されている物語があったと考えられることから,歌の読み方のみを議論しても仕方ないと考えておられるそうだ.

そこで大和三山が出てくる当時の物語を調べてみると「播磨国風土記」が挙げられる.

「播磨国風土記」揖保郡では三山が「相闘ふ」とあるため,香具山=男耳梨山=男畝火山=男となる.

「住吉大社神代記」では,為奈川と武庫川の女神二柱が霊男神人を巡って争う話がある.

これを参考にすれば,香具山=女耳梨山=女畝火山=男となる.

以上四つの説のうち有力なのは仙覚説折口説ではあるらしい.


反歌は長歌で言い足りなかったことや長歌の内容を圧縮した内容の歌にあたるという.


十四番歌は「あひし」「争う」という意味ととれば,
香具山=男耳梨山=男となる.

「あひし」「会う」と言う意味にとれば,香具山=女耳梨山=男となる.

この十四番歌もやはり性別は確定していないということだ.

ところで十四番歌にでてくる「印南国原」であるが,「播磨国風土記」揖保郡を参照している節があるらしい.

ただし,「印南国原」は当時の印南郡,賀古郡,明石郡周辺の海岸を指しているため,揖保郡とは位置がずれている.

中大兄皇子は斉明天皇の西征の際,播磨国「印南国原」沿岸を通って同行しているため,この時に詠んだ歌と思われる.

西征がうまくいくよう,播磨国風土記に登場する「阿菩の大神」への祈りをこめた歌である.


十五番歌は名句として知られている.

まず,「豊旗雲」「祥瑞」の一種で「慶雲」である.

「入日射し」の部分は「入日見し」ではないかという説もあるとのことである.

「入日射し」であれば,未来を願う意味になる.

「入日見し」であれば既に過去となっているので,真っ暗な中でこの歌を詠ったことになる.

また「さやけかりこそ」の部分もいろいろな説があるらしい.

月は「明る」「清む」とは言わない.

最も多いのが「照」でその他に「さやけ」「きよく照る」がある.

「さやけ」=はっきりとで「きよく照る」=清浄なという意味があるが,どちらにしても歌の本意は大きく変わらない.


左注についてであるが,ここでは十五番歌は大和三山について詠ったものではないために反歌でないのではないかという編者の意見が記載されている.旧本には反歌として載せられていたようである.


追記としては,「香具山」は平安時代には「高山」と記載されていた.

これは「高」を中国では「カウ」「カク」と読んでいたようで,「高山」と書いて「カグヤマ」と読んでいたようである.


以上が講座の内容であったが,万葉集は奥が深いとしみじみ感じさせられた.

と同時に独学でどこまで勉強できるか心配である.

とにかく万葉集を読むところから始めるか.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-25 19:56 | 講演会,シンポジウムなど

雷丘の宮殿 ー万葉集 巻第3の235番歌からー

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24回 万葉古代学東京講座 「雷丘の上にあるもの」を受講した.

前回の万葉古代学東京講座はこちら→

講師は竹本晃氏である.

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竹本氏は先月の夕星万葉を担当されていた方である.

竹本氏の夕星万葉はこちら→


概要

万葉集・巻第3の235番歌

天皇,雷の岳に出でませる時に,柿本朝臣人麻呂が作る歌一首

大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも・・・①

右,或本に云はく,「忍壁皇子に献れるなり」といふ.

その歌に曰く,

大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きいます・・・② 


左注をそのまま読めば雷丘には忍壁皇子の宮があったと読み取れる.

「日本書紀」朱鳥元年(6867月戌申条によれば,忍壁皇子の宮と民部省は火事の際に影響があるほど近い距離にあったことが分かる.

雷丘に近い石神遺跡から民官関係の木簡がまとまって出土していることから位置関係としては問題ないように思われる.

ところが雷丘の上の発掘調査によれば中世に古代の遺構が削平されてしまったとは言え,横穴式石室が数基検出されたのみで宮殿に関するような遺物は検出されなかった.

そのため,雷丘の上に忍壁皇子の宮はなかった可能性が高いが仮宮ならばあった可能性があると竹本氏は考えておられるそうだ.


雷丘東方遺跡から墨書土器が出土している.

この中に「城下」と墨書された土器が発見されている.

この土器が発見された井戸の掘削時期は8世紀末~9世紀初頭に近い時期と考えられる.

さらに「城下」土器は井戸の上部から発見されているがこの井戸は9世紀後半に埋められたことから捨てられた時期も同時期と考えられる.

墨書土器は遺跡内で完結するので「城下」郡を示したものではないと考えられることから雷丘東方遺跡から見上げたところに「■城」と呼ばれる地があったと考えられる.

つまり,7世紀末~8世紀初に雷丘に殯宮が築かれ,すぐ解体後,語り継がれて地名となったのではないかという推測が成り立つという.

この「■城」と呼ばれる地名が古代に名づけられた名称によるものであるとすれば,雷丘の地形から判断するに殯宮(あらきのみや)ではないかということだ.

※「大殯の時」「大荒城乃時」(巻第3の441番歌)


殯宮が雷丘の上に築かれていたのならば万葉集から判断するに忍壁皇子のものということになる.

ここで問題となってくるのが,「皇子皇女の殯宮は墳墓建設予定地に設置される」という身﨑壽説と「天皇以外は京内に殯を営むことは禁じられた」という上野誠説である.

まず,身﨑壽説については,その説の中で例に挙げられている明日香皇女・高市皇子・日並皇子墳墓の位置は未確定であるし,殯宮の地についても論争があるので従うことはできない.

また,上野誠説もその根拠は「大宝喪葬令皇都条」によるものであるが,誤解があるものと思われる.

つまり,墳墓の京内への築造のみ禁止されているのであって,いずれ撤去される殯宮は禁止されていないのではないかということである.

この条文が作成されたところの意図を上野氏は死祓を避けるためと考えたために殯宮を京内では禁止という風にとっている.

しかし,穢れはどう解除するかにかかっているものであるため,喪葬令皇都条に死穢は無関係ということで,竹本氏は雷丘に殯宮があっても問題ないと考えておられるとのことだ.


最後に今回の万葉歌二首については両歌を同じような意味で考えるのは間違いであるという.

つまり,「大君は神にしませば」と「雷」という共通性によるもので歌意に基づく配置ではないということだ.

②の歌は通説では「天雲に隠れている雷丘に」と解釈されている.

しかし,「雲隠」には高貴な人の死を敬避する表現法である.

これは万葉集巻第3の416番歌,441番歌,204番歌そして205番歌にも同様の例がある.

また,この②の歌「雲隠」は近世に訓読を「くもかくる」に改められたが,そもそもの写本では「くもかくれ」(紀州本万葉集)であった.

従って②の歌は

(忍壁)親王は神でいらっしゃいますので,お亡くなりになって,雷丘には殯宮をお造りなさっていらっしゃいます

という意味になる.

この歌は本来は挽歌であるが巻第3の雑歌の冒頭235歌の参考として編者が見つけたため,今の位置に置かれることになったと思われる.


以上が今回の講演内容であった.

なかなか興味深いお話であった.

まだまだ,万葉歌にも解釈を再考すべき歌が残っていそうである.

私個人の意見としては忍壁皇子以外の時代の雷丘についてもフォローがあったらよかったなと思った.

まあ,これは個人で調べるべき類のものであろうが.


追記

「天皇以外は京内に殯を営むことは禁じられた」という上野誠説であるが,私は全文を読んでいないので否定するのもおこがましいがメモとして考えを記載しておく.

Wikipediaによれば(HPはこちら→

死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること

とある.

そうであれば天皇以外は京内に殯宮を設置するなというのはおかしな話に思える.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-23 20:20 | 講演会,シンポジウムなど

上生菓子で蛍を愛でる

昨年まで「あんこ」が苦手だった.
私には甘ったるすぎるし,重たいように感じていた.
ところが,昨年の「お伊勢参り」の際,本店で頂いた「赤福」に価値観を変えさせられてしまった.
(朝5時から出かけ,7時には参拝を済ませておかげ横丁をぶらついたので,赤福しか開いていなかったのである.
結果的に価値観を変える出来事となったのだから,ある意味,神様からのご縁なのかもしれない.
そのときの記事はこちら→)
あの「あんこ」はちょうどよい甘味と,何より口のなかで溶けていくような感覚が素晴らしい.
今まで食べた和菓子は何だったのかと考えさせらたものだ.

そのような訳でちゃんとした専門店の和菓子ならばおいしく頂けるのではないかと思い立った.
今回購入してみようと思ったのは「上生菓子」である.
本来ならば茶席で用いられるものかもしれないが,あの目を楽しませる「和菓子たち」は「あんこ」が苦手な私でも心惹かれるものがある.

早速「鶴屋吉信」(HPはこちら→)を訪れてみたのだが,すでに夕方だったためか,1種類しか残っていなかった.
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「蛍恋」である.
こしあんの焼皮製であった.
「あんこ」は甘めだが口溶けがよいようでしつこさがなく,おいしく頂けた.
今度は別の種類も食べてみたいものである.

そういえばもうしばらく蛍を見てない.
とりあえず今年は美しい上生菓子で「蛍狩り」を済ませたということにしておこう.

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by Allegro-nontroppo | 2014-07-21 20:02 | あれやこれ

役行者以前の「吉野」の歴史と信仰に迫る

連続講演「伝えたい 世界遺産「吉野」の魅力」 第2回 天武・持統両天皇と神仙郷吉野に参加してきた.

ちなみに先月,第1回 入門!古事記・吉野・神武東征に参加した際の記事はこちら→

今回の講師は田中岳良氏である.

田中氏は総本山金峯山寺奥駈奉行ということであの有名な大峰奥駈修行を毎年なさっているとのことだ.

本講演が始まる前には田中氏も参加なさっておられた奥駈修行のビデオが会場で流されていたが,とんでもない崖や巨岩を上っていく様子をみて修行のすさまじさを感じた.


さて,本講演の概要である.

天武・持統両天皇と吉野の関わりは以下のとおりである.

♦壬申の乱前夜・・・吉野隠棲(671年)

隠棲に纏わる伝説

・鷹塚伝説

・国栖の翁と犬塚伝説(犬を飼わない,御霊神社には狛犬がいない)

・袖振山と天人伝説(五節の舞の起源)

・夢見の桜伝説(桜本坊)

♦決起・吉野出陣・・・壬申の乱勃発(672年)

♦吉野の盟約(吉野の誓い)(679年)

♦持統天皇の度重なる吉野行幸

御在位中に31度も吉野宮へ

→田中氏はこの度重なる吉野行幸の理由として,即位の背景と天皇たり得る能力に対する不満回避のためではないかと推測されているそうだ.

つまり,具体的には

・草壁皇子の逝去と強引な即位

・天候を司るシャーマン的な能力欠如

と考えられるそうだ.

このようなことから,朝廷の不満が高まり,吉野水分峰への祈願につながったと考えられる.

飛鳥浄御原宮や藤原宮のあった奈良盆地は河川といえば「大和川」しかないため,水に苦労した地域である.

(現在でもため池が多い)

一方で吉野水分峰(現在は青根ヶ峰)は四方に水源を持っているため,神奈備山とされており,農耕を左右したり,天候変化への期待から産土信仰が生まれたようである.


万葉集でも

み芳野の青根が峰の 苔蓆 誰か織りけむ 経緯無しに

神さぶる磐根こごしき み芳野の 水分山をみれば かなしも

と詠まれている.

持統天皇の時代の吉野水分神社は現在の位置とは別の場所に鎮座しており,その近くには修験道の起源に関係する「広野千軒跡」もある.


水分信仰から修験道へと変化した理由としては,都の変遷や吉野の扱いが大きく影響していると田中氏はおっしゃっておられた.

田中氏の資料をほとんど同じように作成させて頂いた.
少々ずれている部分もあるが御勘弁願いたい.

都の変遷   吉  野     水分信仰(自然崇拝)

飛鳥京    吉野宮      水分神(水分峰)

                ↓  →→→→→→→→産土信仰

藤原京                 ←自然崇拝    

                ↓  ←仏教,道教    ↓

平城京    吉野離宮           ←陰陽道     

    (芳野監)       ↓  →→→→→→→→子授け信仰

                  ←雑密      

             原始的修験道         ↓

平安京     廃絶            ←密教      

                  ↓  ←←←←←←←← 子守宮

                 修験道

以上が本講演の概略である.

「吉野」といえば修験道でその開祖は役行者という情報はよく聞くが,それ以前の吉野の歴史や信仰についてはあまり聞いたことがなかったので非常にためになった.

いずれ,吉野を訪れる際にはこの講演で挙げられたような場所を訪れたいものである.

次回の連続公演「伝えたい 世界遺産「吉野」の魅力」を楽しみにしたい.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-18 20:11 | 講演会,シンポジウムなど

徒然草 美術で楽しむ古典文学@サントリー美術館

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サントリー美術館まで「徒然草-美術で楽しむ古典文学」を鑑賞しに行ってきた(HPはこちら→).

見に行ったときには下記のような表示もされていた.

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721日までというので,終わりかけである.


この展覧会を見に行こうと思ったのは副題にもあるように,古典文学を美術で楽しむといった機会は「源氏物語」を除いて経験がないと思ったからである.

伊勢物語などは今後も機会がありそうだが(そういえば燕子花図屏風は伊勢物語系列であるかもしれない),随筆集である「徒然草」にその機会があるのかは非常にあやしい.

そのような訳で出かけてみることにした.


展示内容としては「徒然草」の写本の各系統の古いものが展示してあったり,兼好法師の絵や像などが展示されていた.

それによれば,兼好の経歴については歴史資料が乏しく,詳しいことは分からないとのことであるが,生前は二条為世に師事する歌人として世に知られていたようである.

また,太平記の中に,兼好をモデルにしたと思われる人物が出てきているとのことで非常に興味深い.


今回の展覧会のメインはやはり「徒然草絵巻」海北友雪画である.

サントリー美術館にこの絵巻が新たに収蔵されたことで,この展覧会を実施する運びとなったらしい.

「徒然草絵巻」は、「徒然草」のほぼ全段を絵画化している点でたいへん貴重な作品とのこと.


私は「徒然草」は中学または高校時代に古文で習った程度でほぼ読んだことがないといっても過言ではない.

覚えているのは「序段」と「仁和寺の和尚が石清水八幡宮にお参りにいった話」位である.

今回,この「徒然草絵巻」はかなりの部分が展示されていたようだが,絵巻と一緒に該当の現代訳もあったのでまるで絵本を読んでいるような気になった.

見ていると二,三行の短い段もある.

「仁和寺の和尚の段」など変な話を教科書にのせるものだと当時は思っていたが,ある程度の長さのある無難な話を選ぶとなると限られていたのかもしれない.
しかし,「徒然草」最後の段が兼好が8歳のときのエピソードということくらい教えてくれてもよかったのにと思う.
なかなか,面白い話だと言うのにこの歳になるまで知らなかった.

そういえば,「理想の家の段」と「みかんの木の段」も教科書に載っていたのを思い出した.

記憶は戻るものである.

それにしても「徒然草」は随筆集なのだから,授業などで堅苦しく読むものではなかったと思う.

今更ながら,こうして眺めてみると「くすっ」と笑えたり,「あるある」と相槌を打ちたくなるようなものもある.

昔の人と考えることはそう変わらないようだ.


最後に海北友雪についてである.

海北友雪の作品を見たのは初めてだと思うが,その父である海北友松の作品は今年見ている.

海北友松は建仁寺の障壁画を数多く描いたことで知られている.

今年は模造品が飾られていたとはいえ,建仁寺に出かけているし(本ブログ記事はこちら→),その本物は東京国立博物館の栄西と建仁寺展(本ブログ記事はこちら→)で本物をみているので非常に縁を感じる.

友雪はやまと絵を得意にしていたということで友松と画風が異なっているようであったが,どちらも素晴らしい.

全体を通して満足のいく展覧会であった.


追記

遅い昼ご飯にミュージアムカフェのランチを頂いた.

「麩そうめんランチ」は弾力のあるそうめんで,おにぎりと一緒においしく頂いた.

帰りにショップで「徒然草絵巻」の絵葉書セットを購入した.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-15 19:05 | 博物館

飛鳥学講演会③ 「飛鳥と天皇の誕生」

飛鳥学講演会,最後の講演は③飛鳥学講演 「飛鳥と天皇の誕生」 千田稔氏(奈良県立図書館情報館長)である.


③飛鳥学講演 「飛鳥と天皇の誕生」 千田稔氏(奈良県立図書館情報館長)

この講演はいつ頃天皇号が成立したかというのが主題である.

まず,天皇号の由来として有力なのは中国の宗教である道教の最高神・天皇大帝である.

この天皇大帝は北極星が神格化した神ということは以前に本ブログでも触れた(ブログ記事はこちら→).

そして道教の世界観は八方位であるという.

このことが天皇・皇族のための八角形古墳の出現につながっている.


天皇の宮都における形の条件として

北極星→大極殿(北極星を建物の形にしたもの.賀正・即位などの大礼に使用され,一年に数度しか使用されない)

天皇大帝→高御座→八角形

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写真は復元された平城京宮に置かれている高御座である.
京都御所には現在の天皇陛下が即位の折に使用された高御座があるそうである.

現在,天皇号の開始時期については,天武・持統朝が主流である.

これは飛鳥池遺跡出土木簡(通称・天皇木簡)に「天皇□聚露□」とあること,飛鳥浄御原宮東外郭より出土した木簡に「大津皇」(同時に「辛巳」の木簡も出土)とあること,そして文武天皇の即位宣命(資料には日本書紀とあったが続日本紀の間違いではないだろうか?)に天皇とあることから推定されている.

天武・持統朝より天皇号が使用され始めたのであれば「飛鳥浄御原令」における規定に従っている可能性がある.


ところで宮内に大極殿または高御座があれば,その関係性から「天皇号が成立していた」と千田氏は推定されている.

飛鳥浄御原宮にはエビノコ大殿の跡が発見されているがこれは大極殿相当の建物と思われる.

(ちなみに飛鳥浄御原宮はもともと岡本宮と言っていたのを天武天皇の病回復を祈り,名称変更した)

また,日本書紀・天武天皇2年2月に壇上と書いて「たかみくら」と読ませ,即位をしていることから,すでに天武天皇即位時に天皇号が存在していたと言える.

そうであれば近江令で定められていた可能性が高い.


船王後墓誌銘は戊辰(天智7年)と記載がありながら,すでに「天皇」の記載が見られる.

(冠位大仁:推古朝と官位大仁:文武朝の記載の齟齬があるため,重要視されていなかった)

さらに天智天皇の近江大津宮には内裏正殿という大極殿相当の建物が存在していた.


日本書紀の大極殿に関する部分を確認すると皇極4年に「天皇,大極殿(ただし,読みは「だいあんでん)に御す」,天武10年に「天皇・皇后,共に大極殿に居しまして…」との記事がある.

また,幸徳朝652年に完成した前期難波宮に大極殿相当の建物があったことが発掘調査により分かっている.


古墳の形状から考えると,舒明,皇極,斉明,天智,天武,持統,文武天皇が八角形墳である.

(ただし,舒明天皇陵は改葬されている.孝徳天皇は不明.)

このことは天皇号の成立が舒明朝であることを示しているのかもしれない.

その傍証として万葉集 舒明天皇代 巻1-3番歌の歌に

やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ~

という歌があるが,このやすみししは枕詞で「八方をおさめていらっしゃる」と言う意味がある.

ただし,千田氏によれば万葉集を歴史資料として使用するのはできるだけ避けた方がよいとのこと.


舒明朝における天皇号の成立の確証は得られないので皇極朝で確認する.

まずは日本書紀・皇極紀に「大極殿」とある.

次に,舒明天皇陵は皇極朝に八角形墳に改葬されている.

極めつけは「皇極」という諡である.

後世に名づけられた諡とはいえ,「天」と「北星」からとられた「皇極」という名は天皇号を名乗っていた可能性を十分予測させてくれる.


以上がこの講演の内容である.

言われてみればなるほどという所であるが,今まで全く気が付かなかった.

気になる点と言えば「天皇」の読みである.

恐らく,初期は「しらすすめらみこと」であったのが「てんのう」に変わったのであろうと思うが,どの段階なのか.

今後,日本書紀を読む際は気を付けておきたい.

2014年の飛鳥学講演会(前回までの記事はこちら→ 飛鳥学講演会① 飛鳥学講演会②についてはこのような内容であった.

また来年も参加してみたいと思う.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-13 19:01 | 講演会,シンポジウムなど

飛鳥学講演会② 「明日香村最新発掘調査報告 -最前線-」

さて飛鳥学講演会の②発掘報告 「明日香村最新発掘調査報告 -最前線-」 長谷川透氏(明日香村教育委員会文化財課)である.

①基調講演の川嶋氏に続き,長谷川氏もお顔を存じている.

昨年,明日香村を訪れた際,たまたま「飛鳥寺西方遺跡」の現地説明会に参加する機会を得た.

その時,説明しておられたのが長谷川氏である(本ブログ記事はこちら→).

今回の講演内容もやはり長谷川氏の手がけておられる「飛鳥寺西方遺跡」の比重が大きかった.


講演内容

ここ2,3年の発掘成果は以下の通りである.

ⅰ)飛鳥京跡苑池(橿考研)…飛鳥時代の宮殿に付属する庭園跡.白綿後苑か?

ⅱ)甘橿丘東麓遺跡(奈文研)…蘇我蝦夷・入鹿の邸宅跡か?炭の焼けた跡有→天皇紀・国紀を焼いた場所?

ⅲ)檜隈寺跡周辺(奈文研・橿考研・明日香村)…渡来系氏族・東漢氏の氏寺とその周辺.坂上氏(田村麻呂)のふるさと

ⅳ)飛鳥寺西方遺跡(明日香村)…槻の樹の広場か?

・日本書紀から飛鳥寺西に槻樹の広場が想定される.

 →壬申の乱のおり,陣が敷かれたり,蝦夷二百十三人を歓待したりしていることから,大人数が集まれる空間であったと思われる.

・そばには石神遺跡(斉明朝の迎賓館跡)や水落遺跡(中大兄皇子による漏刻跡)等ある.

主な遺構:石敷(砂利敷,礫敷),石組溝,石列,掘立柱塀,土管暗渠,大土坑,木樋.

「飛鳥寺西方遺跡」の主な遺構については一つ一つ写真をスライドに出しながら説明しておられた.

現地説明会で質問させて頂いた「焼けた土」についても以前と同様に壬申の乱の戦火によるものではないかと推測されておられた.

また槻の木の痕跡はまだ見つかっていないので「今後,発掘できれば…」というようなコメントもあった.


「飛鳥寺西方遺跡」は今秋も発掘予定とのことで,見学も可能とのことらしいので,チャンスがあれば行ってみたい.
この「飛鳥寺西方遺跡」は飛鳥時代を知る上で重要な遺跡であるようだ.
以前も書いたように,今後の発掘に期待したい.

下記に現地説明会の際に撮影した写真を貼っておく.
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by Allegro-nontroppo | 2014-07-10 19:12 | 講演会,シンポジウムなど

飛鳥学講演会① 「古代の貧民救済思想 -憶良・光明子などー」

飛鳥学講演会に参加してきた.


内容は

①基調講演

 「古代の貧民救済思想 -憶良・光明子などー」 川嶋辰彦氏(学習院大学名誉教授)

②発掘報告

 「明日香村最新発掘調査報告 -最前線―」 長谷川透氏(明日香村教育委員会文化財課)

③飛鳥学講演

 「飛鳥と天皇の誕生」 千田稔氏(奈良県立図書館情報館長)

であった.

全てを一度の記事にまとめるのは大変なので少しずつUPしていきたい.

今回は①基調講演についてまとめる.


「古代の貧民救済思想 -憶良・光明子などー」 川嶋辰彦氏(学習院大学名誉教授)


古代におけるNGO(非政府組織;今回はヴォランティア活動団体とする)として「悲田院」・「施薬院」が挙げられる.

この「悲田院」・「施薬院」を最初に設置したのは光明子であるが,では光明子はこの貧民救済思想をどうして持つにあたったかというのがこの講演の主題である.

光明子は藤原不比等と県犬養三千代の娘で,後に聖武天皇の皇后となった人物である.

彼女の有名な逸話として,法華寺浴室でハンセン病患者の世話をしたというものがある.

ところで,「悲田院」・「施薬院」の思想基盤には仏教の「福田思想」というものがあるらしい.

「福田思想」とは贖罪を含む善行の種子をまけば,やがて招福壌災の穂が実るというものである.つまり,光明子の祖父である鎌足以来藤原氏が犯してきた罪(大化の改新~長屋王の変までということだろう)に対する贖罪プロジェクトということになる.

では,光明子に貧民救済の思想面で影響を及ぼしたのは誰であろうか.

まずは光明子の父母である藤原不比等と県犬養三千代から個人的影響を受けている可能性が高い.

また702704年の遣唐執節使であった粟田真人が持ち帰った唐の品々や知識から影響を受けている可能性がある.

粟田真人が唐に渡ったころ,中国大陸の皇帝は則天武后であった.

粟田真人は則天武后の謁見をうけている.

則天武后は数々の貴人らを殺めた人物(こちらの記事でも少し触れている→)であったことから,福田思想に基づく慈善事業を行っていたという.


光明子と同時代の「貧民や弱者へ真正面から向けられた視点をもつ」人物がいる.

山上憶良である.

彼の有名な貧窮問答歌は社会をもっとよくするために弱者を対象に据え,代理判断に基づく主観的考察を試み,得られた社会的メッセージを社会啓発文学として歌に託して発信した「世直し」のための歌ではないかということだ.


この山上憶良は光明子と接点がないわけではない.

彼は粟田真人と共に唐から戻った後,東宮侍講となっている.

当時の東宮は首皇子,つまり後の聖武天皇であり,既に光明子は東宮妃となっていた.

不比等,三千代,粟田真人らが憶良を東宮侍講に推挙し,「贖罪・社会事業に照準を合わせた」ヴォランティア論の教授があったではないかと川嶋氏は推測されている.

これは後に悲田院・施薬院の設置,東大寺盧舎那仏の造仏という藤原氏・天皇家の共同贖罪・鎮魂プロジェクトにつながっていくのである.

(天皇家も中大兄皇子以来,天武・持統天皇系ラインを担保するのに必要であった「殺め」の行為に贖罪意識があった)


最後に川嶋氏は「NGO活動の動機が贖罪であったとしても,その行為は,他からの思惑を超越して高く評価されるべき普遍的な価値を有する」というヴォランティア論の文脈における,贖罪プロジェクトの位置づけについて力説されておられた.

川嶋氏のお話とは少し逸れるかもしれないが,日本のヴォランティアに対する姿勢は諸外国のそれと比べて悪い方に間違っていると思う.

道徳や情操教育の一環か何かは分からないが,学校から休みの日に決まった作業を「ヴォランティア」として強制される.

強制させたうえで取り組まない人間は「人非人」として扱うのである.

さらには「ヴォランティア」に打算だとか利益などというものを一切求めてはいけないというのである.

おかげで「ヴォランティア」というものに胡散臭さを感じるようになってしまった.

私には打算のない「ヴォランティア」に一生懸命取り組むなどということはとてもできそうにない.

このようなハードルの高い行為を求めるかぎり,日本での「ヴォランティア」の発展はまずないものと思われる.


ところで,今回配布のレジュメにはある新聞記事が載っていたのだが,時間がおしていたためか,講演の中で一切触れられることなかった(新聞記事はこちら→
)
2014
7月3日付の記事で悲田院・施薬院の運営を示す木簡が発見されたというのである.

これは平安京跡から発見されたもので,光明子の時代より下るが,悲田院・施薬院に関する資料は少ないとのことで,貴重な資料として期待されているらしい.

何年か前に泉涌寺に出かけた際に近くで悲田院跡を見かけたと思うが,地図を見る限り,違う場所に思える.

平安京にも幾つもあったのだと思うと,私が思うより朝廷の慈善事業は発達していたということになる.

とにかく,この木簡からいろいろなことが分かりそうで楽しみである.


講演内容とは全く関係ないが,私は川嶋氏をどこかでお見かけしたことがあるような気がしてならなかった.

プログラムをもう一度確認したところで,講演中にもかかわらず声をあげそうになった.

川嶋氏は秋篠宮妃紀子様の御父君である.

天皇家の外戚にあたる方から,古代の天皇家に関する講演を聞くなどなかなか無い体験である.

それを抜きにしても古代のヴォランティアと言う観点から光明子と憶良をつなげるという発想が面白かった.


次回は②発掘報告 「明日香村最新発掘調査報告 -最前線―」 長谷川透氏(明日香村教育委員会文化財課)について書いてみたい.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-08 19:17 | 講演会,シンポジウムなど

遺物と3Dプリンター


3Dプリンターで製作した銃による銃刀法違反が適用され,大学職員が逮捕された事件は記憶に新しい.

私は銃も3Dプリンターも詳しくないので,この事件における詳細をよく理解できているとは思えないが,どうやら拳銃に使われる部品を3Dプリンターで作成し,その部品を組み立てて拳銃を作成したようで,この拳銃には殺傷能力もあったらしい.

一方,3Dプリンターは液体樹脂に紫外線を照射し,硬化させる方式や熱で融解させた樹脂を積み重ねる方式,そして粉末樹脂に接着剤を吹き付ける方式などがあり,現在は製造の分野で普及しているようだ.

個人的な意見としては今後,医療の分野でさらなる普及が見込まれるのではないかと思っている.


この3Dプリンターが考古学の分野でも用いられているという.

以下,読売新聞の記事(HPこちら→)を引用する.

静岡県・原分古墳(7世紀初め)で出土した鉄製大刀のさびに覆われた柄頭(握り部分)について、村上隆・京都美術工芸大教授(金属史)が3Dプリンターを使い,さびのない状態の復元品を製作した.今後,さびに覆われた鉄製刀剣の銘文の解読などへの活用が期待できるという.

柄頭は高精度の透視画像が得られる装置「エックス線CT」で,精密な渦巻き文の銀象眼が施されていることが判明している.だが,さびが進んでもろいため,象眼を研ぎ出して実際に確認することはできず,コンピューター上の画像で観察するしかなかった.

復元品は樹脂製で,黒地に象眼部分を灰白色に着色.細い銀糸をよって鉄地にはめ込んだ細部まで実体化できた.村上教授は今後、埼玉稲荷山古墳出土鉄剣のような,さびに覆われた鉄製刀剣の銘文復元などに活用できるといい,「3Dプリンターが文化財研究に有効な手段であることを改めて示せた」と話している.

3Dプリンターでは,村上教授が今年1月,三角縁神獣鏡の復元品を製作し,光を反射して文様が浮かぶ魔鏡現象が起きることを明らかにしている.


柄頭の復元もおもしろいが,三角縁神獣鏡の魔鏡現象は是非とも見てみたいものである.

Dプリンターで作成された復元品ならば私のような「一般の歴史ファン」でも実際に手に取る機会が巡ってくるかもしれない.

その時には「銅鏡」,「銅鐸」の復元品など手に取ってみたいものである.

「漢委奴国王」の金印の復元品など作成し,実際に印を押すことのできる体験コーナーなどあってもおもしろそうである.

今後,3Dプリンターの使用がどのように普及していくか分からないが,研究者以外の一般人にも恩恵を受ける日が来ることを期待したい.


追記

埼玉稲荷山古墳出土鉄剣については,刀鍛冶の方が当時の製法で作成した模造品が存在している.

この場合は3Dプリンターで作成するよりも刀鍛冶作成の模造品の方が遙かに価値があると思う.

やはり,ケースバイケースということであろう.


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by Allegro-nontroppo | 2014-07-06 19:05 | あれやこれ