カテゴリ:旅行記( 23 )

總持寺と横浜市歴史博物館

4月に入ってしまったが,319日のことを書きたい.

この日は横浜市歴史博物館の歴史講座に申し込みをしたので,博物館の見学と以前から興味のあった總持寺の見学に充てることした.

以下,感想である.


總持寺

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下写真は大祖殿である.
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正式名は諸嶽山總持寺,永平寺とならぶ曹洞宗の大本山である.

元亨元年(1321年),瑩山律師禅師によって開かれた.

元は能登軍櫛比荘にあったが,明治三十一年の大火を契機に現在の横浜市鶴見に移転した.


以前から,この總持寺には後醍醐天皇が祀られているという話を聞きかじっており,なぜ横浜のお寺に…?と疑問であった.

後醍醐天皇はじめ後村上天皇、後奈良天皇、後陽成天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各ご尊儀は御霊殿にご奉安されているそうである.

總持寺のHPによれば御霊殿は,

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昭和12年(1937)、後醍醐天皇の600年御遠忌を記念して建立されました。

後醍醐天皇は、太祖・瑩山禅師の高い徳風の評判をお聞きになり、信仰上の10か条にのぼる疑問を提示されたところ、禅師は見事にお答えになったことから、元亨2年(1322)、「曹洞出世の道場」の綸旨を下賜され、總持寺は官寺に昇格しました。

とのことで,後醍醐天皇が崩御する前からのつながりがあったということで,納得できた.


立派な大黒天も祀られており,後醍醐天皇との関わりを感じずにはいられない.


訪問時には佛殿にて「開祖瑩山紹瑾禅師七〇〇回,二祖峨山韶碩禅師六五〇回大遠忌記念 禅と心のかたちー總持寺の至宝―旗揚げ展」が開催されていたため,鑑賞させて頂いた.

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重要文化財 刺繍獅子吼文大法被

毎年十月十五日の御両尊御征忌会の最終日に大祖堂で行われる總持寺貫首による問答の際に使用されるとのこと.

獅子の吼える様子は釈迦が説法する様子をたとえているそうである.

実際に十月十五日に使用されている様子を見てみたいものである.


横浜市指定文化財 前田利家像

重要文化財    前田利家夫人像

幅のように作成されているものの,利家像は夫人像に比べ,筆致や造形感が一歩譲っているそうである.

また利家像には夫人像にある賛もない.

夫人像はテレビや本などで目にした記憶があるが,本物がこちらにあるとは知らなかった.


その他,貴重な名宝の一部を鑑賞することができた.

また,仏殿にお祀りされている釈迦牟尼如来,脇侍として迦葉尊者,阿難尊者に近くで手を合わせることができた.


横浜市歴史博物館

歴史講座・古代

ある数奇な歴史書―当館所蔵「本朝世紀」をめぐって

本朝世紀は六国史の次に歴史書であるが未完のまま終わってしまったということで,知名度もあまり高くないそうだ.

恥ずかしながら本朝世紀という名は初めて聞いたので,せっかくならば講座に参加させて頂こうと横浜までいくことにしたのである.

講師は横浜市歴史博物館 学芸員 柳沼千枝氏であった.

本朝世紀の編者は信西(藤原通憲)である.

信西は藤原・南家末流の学者の家柄の生まれであったが幼くして父を亡くしたために高階家の養子となったので家業を継ぐことができなかった.

鳥羽院へ接近するものの,官位は上がらず出家し,後,信西となる.

妻が乳母として仕えた後白河天皇が即位することとなり,起こった保元の乱に勝利をおさめ,信西政権を固めるにいたるも,後白河天皇が退位し,反信西派が形成され,平治の乱で命を落とした.

信西が急死したことにより,本朝世紀は未完の歴史書となった.

(宇多一代のみ完成,醍醐~近衛十七代分が未定稿として朝廷に存在していたが焼失)

太政官の公日記である外記日記(公務参考用の記録)としてのかたちが残っている.


南北朝時代,持明院統の皇室文庫が北朝三代崇光天皇に継承されるが,動乱の中で崇光天皇が南朝方に拉致された間に弟の後光厳天皇が即位する.

崇光天皇は都に復帰するが,皇位は戻らず皇子栄仁親王が伏見宮家を設立し,持明院統の正嫡として文庫を保持していくことになり,伏見宮蔵書(本朝世紀も含まれる)となった.


以上のような説明を受けたところでミニコーナー展示の「本朝世紀」横浜市歴史博物館本を見ることとなったが,字配り・書体,そして欠損部分に至るまで忠実に伏見宮本を再現されていた(複本作成者 伏見宮家従 浦野直輝)

新しいものをどんどん取り入れよう,諸外国礼賛の時代にこのように古いものを残すべきという意志を持った人がいたというのは本当に素晴らしいことだと感じた.


常設展

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横浜市の歴史について俯瞰して学べるように展示されていた.

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最近気になっているヒスイの流通についても(縄文時代に糸魚川からムラづたいの交流で手にいれていたとのこと)パネルの説明があって,興味深く見させていただいた.

横浜には弥生人が移住してきたというのも面白い.

どこからやってきたのかはまだわかっていないとのことである.

横浜というと幕末以降開けた土地だというイメージであったが,その前から人口は少なくとも人は住んでいたわけで,海沿いということもあり,昔の人々の交通などを解明するには重要かもしれない.

中世以降の展示も充実していた.


企画展 称名寺貝塚 土器とイルカの縄文人

称名寺貝塚は横浜市金沢区に位置する貝塚である.

特徴としては貝類の他に魚類(ボラ,マダイ,クロダイ,スズキ,マグロ類など),ニホンジカ,イノシシ,イヌ,タヌキ,そしてイルカ類(バンドウイルカ,マイルカ,オキゴンドウ)が出土していることである.

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イルカ猟は縄文時代後期初頭には行われており,縄文後期中頃を境に数が激減し,後期末から晩期中頃にはイノシシと特にシカが多くなる.

これは古平潟湾の変化(狭くなった)ことにより,イルカが入ってこられるような内海でなくなったことが影響しているとのことである.

イルカを仕留めるには銛漁法が中心であったようである.

また,イルカの頭が裏返された状態で並んで出土し,骨の表面に必要以上の無数の打撃痕が残っていたため,何らかの風習があったと考えられる.


もう一つの特徴としてはその名の由来ともなった称名寺式土器である.

こちらも多数展示されていた.

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以上である.

なかなか充実した1日であった.

ただ,横浜市歴史博物館横の大塚・歳勝土遺跡公園にまで足を延ばす時間が足りなかったのが残念であった.

機会を見つけて,博物館の歴史講座への参加や遺跡公園の見学など行いたい.


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by Allegro-nontroppo | 2016-04-03 20:42 | 旅行記

鎌倉の旅ー金沢街道ー

更新に間が空いてしまったのに,またしても鎌倉の記事である.

38日に浄妙寺で特別参拝が行われるのに合わせて,金沢街道周辺を観光してきた.

先日の二階堂地域のすぐそばである.

この日は天気も良く,特に昼間は3月上旬と思えないほど暖かい日で,昼間は上着を抱えながら回ることとなった.

半袖の方もいらっしゃり,散策日和であった.

以下概要.


十二所神社

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御祭神:天神七代・地神五代

明治新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈の動きにより現社名に改称されたようで,御祭神に関しても動きがあった可能性を感じる.

吾妻鏡によれば,1182811日には北条政子の出産に際する奉幣使の派遣や813日には十二所神社のほか諸社に源頼家誕生を祝って神馬を奉納した旨が記されているとのことである.

境内社は疱瘡神、宇佐八幡、地主神とのことであるが,字が薄れていて識別できず.


大江稲荷神社

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大江広元を祀る神社とのことである.

しかし,稲荷社ということもあるので御祭神はどうなるのだろうか.

大江広元と稲荷神というよりも,鎌倉政権と稲荷神のつながりゆえのこの形態ではないかと思う.


光触寺

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御本尊:木造阿弥陀如来及び両脇侍立像(頬焼阿弥陀)

開基:時宗開祖・一遍上人

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御本尊は盗みの疑いをかけられた法師の身代わりに頬に焼印が残ったという伝説がある.

また,本堂前の塩嘗地蔵はその由来から,鎌倉には金沢方面から塩が入ってきていたことが窺えるとのこと.

私は寺社巡りの際,可能であれば御朱印を頂く事にしているが,光触寺では御朱印を頂いた後にお経をあげて頂いたようである.

本当にありがたいことである.


明王院

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建立:鎌倉幕府四代将軍藤原頼経

御本尊:五大明王

将軍の祈願寺として建立され,幕府の鬼門方向にあたることから,鬼門除け祈願寺とされていた.

御本尊から五大堂とも呼ばれており,鎌倉市内で祀られているのは明王院のみとのこと.

茅葺屋根の本堂等を含め,素晴らしい境内であったが写真撮影禁止ということで,境内外からの写真である.


足利公方邸跡

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青砥藤綱屋敷跡

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これらの邸跡や屋敷跡が点在していることから,二階堂地域も含めて,この周辺は鎌倉~室町時代における政治の中心であったといえるのではないかと思う.


杉本寺

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建立:藤原房前,行基

御本尊:734年行基御作,851年慈覚大師円仁御作,985年恵心僧都源信御作三体の十一面観音

奈良時代に建立されたという,鎌倉最古の寺である.

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擦り減った苔むした石段や茅葺屋根の本堂など古刹らしい雰囲気がある寺である.


浄妙寺

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創建:足利義兼

開山:退耕行勇

鎌倉五山第五位の寺格をもつ.

当初は密教系の寺院であったが月峯了然が住職となってから,禅刹に改め,ついで寺名を浄妙寺と改めたという.

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また,本堂裏には足利貞氏の墓がある.

貞氏は足利尊氏の父である.

先月,太平記を読みかじったこともあり,1352年浄妙寺境内の延福寺に足利直義が幽閉され,翌年226日急死したということで興味があるお寺である.

そのようなわけで,「2016年春・梅 かまくら 寺社特別参拝」に参加させていただいた.

本堂の阿弥陀如来立像や聖観音像,淡島大明神立像を本堂内でよくよく拝ませて頂いた.

さらに昨年新築され,一般には初公開となった開山堂で退耕行勇坐像,三宝荒神立像及び藤原鎌足像もしっかりと拝観させて頂いた.


報国寺

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開山:天岸慧広

足利,上杉両氏の菩提寺として栄えたとのこと.

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孟宗竹が茂る「竹の庭」が有名で,竹の寺とも言われている.

おそらく金沢街道地区ではもっとも有名なお寺ではないだろうか.

竹の庭が素晴らしかった.


田楽辻子のみち

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鎌倉時代に路沿いの釈迦堂前に田楽師が住んでいたのが名前の由来という.


上杉朝宗邸跡

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文覚上人屋敷跡

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上記石碑は田楽辻子のみちに点在している.

上杉朝宗も文覚も鎌倉幕府,室町幕府にとって重要な人物で,邸跡や屋敷跡から,政治の中心地であったことが窺える.


以上である.

今回は念願の鎌倉五山のひとつを初めて参拝させて頂いた.

来年もこのような社寺特別参拝の企画が行われるようであれば,是非とも参拝したことのない寺社に参加させていただきたいと思う.


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by Allegro-nontroppo | 2016-03-13 21:57 | 旅行記

鎌倉の旅ー二階堂ー

有給休暇を取得して鎌倉に出かけた.

梅かまくら寺社特別参拝に参加するためである.


鎌倉には何度か足を運んだが鶴岡八幡宮から江ノ電沿いを拝観するばかりで他の地域は訪れたことがない.

未だに鎌倉五山を一社たりとも拝観したことがない始末である.


そんな中で以前から気になっていた鎌倉宮で217日に特別参拝できるということで,今年に入ってからまだ取得していない有給休暇を取得して訪れてみようと思い立ったのである.


鎌倉宮についてはものすごい所とは聞いていたが,南北朝時代直前の頃の出来事がメインなので,正直大まかな流れもよくわからない.

太平記 ビギナーズ・クラシックス日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 日本の古典)を購入し,慌てて読んで出かけた.


覚園寺

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覚園寺の本堂薬師堂,地蔵堂,旧内海家住宅,百八やぐらは各拝観時間に案内の方とともに拝観させていただけた.

案内の方による解説をまとめてみた.

鎌倉幕府2代執権北条義時が建立した大倉薬師堂が覚園寺の前身とのことである.

義時が将軍実朝の鶴岡八幡宮参拝に付き従った夜,夢の中に薬師十二神将の「戌神」が現れ,「今年は無事だったが来年の将軍の参拝のときには供奉するな」というので,大倉の地に薬師堂を建てた.

その翌年,鶴岡八幡宮寺で将軍実朝の右大臣拝賀の式典では,義時も御剣を持って従ったが,気分が悪くなり立っていられず,御剣役を代わってもらったところが,代役の源仲章は,実朝ともに公暁に斬り殺されてしまった.

その後9代執権北条貞時の時代に元寇の再来がないように正式の寺院として覚園寺としたそうである.


薬師堂(本堂)

茅葺の仏堂で,足利尊氏が建立したものを江戸時代に改築したそうで,天井には尊氏自筆の銘が残されている.

本尊薬師三尊像,十二神将像,阿弥陀如来坐像(廃寺理智光寺の旧本尊で鞘阿弥陀というそうである.川端康成も愛していたそうである)、伽藍神像が安置されている.


自由に拝観できる愛染堂は廃寺となった大楽寺に所属していたそうで,本尊の木造愛染明王坐像,鉄造不動明王坐像,木造阿閦如来坐像が安置されている.


本堂など雰囲気があって神聖な気持ちとなった.

少なくとも二つの廃寺から客仏を預かっていることなどから,昔は権勢を振るっていたのだろう.


荏柄天神社

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北野天満宮,太宰府天満宮とともに三大天神と称される.

1104年に雷雨とともに天神画像が天降り,神験を恐れて社殿を建てて画像を納め祀ったのが始まりだそうである.

1180年に源頼朝は鎌倉大蔵の地に開いた幕府の鬼門の守護神として改めて社殿を造立したという.


ちょうど梅の季節で本格的に撮影している方もたくさん見かけた.


白旗神社

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解説板によれば,源頼朝の北隅に石橋山の合戦で髪の中に納めて戦ったという観音像を安置した持仏堂があり,頼朝が亡くなるとこの場所に葬り,法華堂としたという.

明治に至り,白旗神社と改めたそうである.


源頼朝の墓

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頼朝は法華堂に葬られたが後に廃絶してしまった.

現在の塔は島津藩主・島津重豪が整備したものである.


白旗神社,源頼朝の墓を巡って考えてみるに,結局,源頼朝の葬られた正確な位置は分かっていないということになるのではないかと思う.

後々,大名たちが源氏平氏を強く意識していたのにも関わらず,法華堂も廃絶してしまっていたとは,もう少し尊崇されていてもよいのではと思ってしまう.


島津忠久,大江広元,北条義時の墓

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そもそも北条義時の墓があったとされるそうで,現在は大江広元,大江季光,島津忠久のやぐらが並ぶ.


鎌倉宮

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梅かまくら・寺社特別参拝で参加させていただいた.

正式参拝後,講和を拝聴させていただいた.

鎌倉宮の歴史については以下のようであった.

ご祭神・護良親王は後醍醐天皇の第一皇子であり,比叡山延暦寺で大塔宮尊雲法親王として天台座主となっていた.

後醍醐天皇が隠岐にながされたときに還俗して,鎌倉幕府打倒に貢献した.

しかし,足利尊氏に警戒心を抱いていた護良親王は逆に無実の罪を着せられ尊氏の弟・直義により土牢に幽閉され,北条高時の遺児・時行が鎌倉に攻め込んだ戦に敗れた直義は逃れる際に親王暗殺を命じ,最期を迎えた.

江戸時代末期には尊王攘夷の機運が高まると護良親王の功績を偲び,参拝者が増えたそうである.

明治時代に鎌倉宮として創建し,官幣中社として列せられたという.


土牢,御構廟,そして護良親王の着物(直垂?)などを所蔵する宝物殿を見学させていただいた.

衣張山や御霊神社の面掛行列の話などは私の考えていたようなご意見をお持ちのようで自信をもったが,意見が異なるようなお話もされていた.

そのあたりを突っ込んで質問してみたいとも思ったが,お忙しい方のようで今回は遠慮させていただいた.

その他に鎌倉の歴史(和賀江島など)のお話をされていた.

面白い時間であった.


護良親王墓

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鎌倉宮に出かけたのに素通りはできないと思い参拝した.

現在,理智光寺跡に1347年に建立されたそうである.


瑞泉寺

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鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた格式のある寺院で,復元された仏殿背後の庭園は、夢窓国師の作として、国の名勝に指定されているそうである.


永福寺跡

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源頼朝が奥州合戦の戦没者慰霊のために平泉の二階大堂大長寿院を模して創建した寺院とのことである.

史跡公園として整備がすすめられている.



この日は通り雨こそあったが(鎌倉宮で講和を拝聴している最中のことで,屋内にいたため影響なくラッキーであった),それ以外は天気も良く,散策日和であったといえるであろう.

二階堂周辺は鎌倉幕府があったともいわれる場所なので,鎌倉でも重要な土地であったはずである.

そのような場所を散策できてよかったと思う.

最後に二階堂の花々の写真を.
覚園寺の梅

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荏柄天神社の梅
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鎌倉宮の河津桜
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瑞泉寺の黄梅

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by Allegro-nontroppo | 2016-02-22 00:03 | 旅行記

和歌山・大阪の旅 3日目

和歌山・大阪の旅3日目,最終日である.

最終日は堺市から大阪市へ向かって観光をする.

以下,概要である.


住吉大社

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祭神 第一本宮 底筒男命,第二本宮 中筒男命,第三本宮 表筒男命,第四本宮 神功皇后

摂津国の一之宮で本殿は全て国宝とのことである.

神功皇后の三韓遠征からの凱旋の途中,お告げによって,住吉の地に祀られることになったという.

住吉の神ということで海人族と大和王権の関わりを証明する証拠ではないかと思う.

実はこの日は1123日であったので,新嘗祭が執り行われていたので眺めさせていただいた.

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初めて新嘗祭を見ることになったが,実際見ることができてよかった.
一寸法師発祥の地ということで大きなお椀の展示もされていた.
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大阪歴史博物館

常設展示は大きく分けて古代のエリア,中世近世のエリア,近代現代のエリアに分かれている.

一番興味がある古代のエリアをじっくり見させていただいた.

古代のエリアの半分は後期難波宮を再現している.

もう半分は発掘された遺物や再現模型などが展示されている.

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さらに見どころは古墳時代の大型倉庫群の地下遺構と正面玄関前の復元された古墳時代の大型倉庫である.

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地下遺構のガイドツアーはたった一人の参加にもかかわらず,催行して頂き,ありがとうございました.


史跡 難波京跡(難波宮跡公園)

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公園内には復元された後期難波宮の大極殿基壇や前期難波宮の八角形建物などが立体的に遺構表示されている.

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全体像は大阪歴史博物館から眺められる.

難波京の大型倉庫は海を介した交易が活発に行われていた証拠である.

意図したわけではないが,紀氏による紀州や難波を拠点とした交易やその当時の大王の墓など同時代に栄えていた地を巡ることとなった.


四天王寺

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推古天皇元年(593)に建立された.

いわゆる崇仏戦争の際,崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために,自ら四天王像を彫り,この戦いに勝利したら,四天王を安置する寺院を建立する誓願され,勝利の後,建立された日本仏法最初の官寺ということである.

時間も遅くなっていたので急いで観光することになった.

次回,行くことがあれば,早い時間に訪れたい.
ちなみに塔は修理中であった.


以上,和歌山・大阪の旅である.

天気が崩れたのは3日目の午後以降のみであったからまずまずであったと言えるだろう.

旅行前から旅行中にかけてたくさんの方々に親切にしていただいた.

本当にありがとうございました.

大阪は古市古墳群や石切劔箭神社など,まだまだ行ってみたいところがあるのでまた,旅行を計画したい.

和歌山も牟婁温泉,熊野,高野山周辺など訪れたい場所がたくさんある.

2日目の堺市役所から二上山を眺めたのであるが,そちら周辺もあらためて訪れたくなった.

今年はもう難しいが,来年もいろいろ出かけたい.


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by Allegro-nontroppo | 2015-12-13 23:20 | 旅行記

和歌山・大阪の旅 2日目

和歌山・大阪の旅2日目である.

2日目は堺市に向かった.

百舌鳥古墳群めぐりをするためである.

百舌鳥古墳群をじっくりめぐろうと計画を立てていたのだが,1日目は堺市周辺のホテルが満室で和歌山にホテルをとることになったのでこのような行程となった.

これはこれでよかったと思う.

以下,2日目の概要である.


田出井山古墳(反正天皇陵)

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前方後円墳で築造時期は五世紀中頃とされている.

墳丘は三段築成,西側くびれ部に造り出しがあり,二重の濠が巡らされていたことが分かっている.

前方部は南を向いている.

円筒埴輪,朝顔形埴輪,衣蓋形埴輪,形象埴輪,各種須恵器,瑪瑙製の勾玉が出土している.


方違神社


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祭神:八十天万魂神,素戔嗚命,三筒男大神,息気長足姫命

この神社は住吉郡,河内多治比郡,和泉大鳥郡のいずれにも属さない,方位のない清地であるとされてきた.

なかなか興味深い神社である.


天王古墳


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田出井山の陪塚で方墳である.


鈴山古墳

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田出井山の陪塚で方墳である.


丸保山古墳


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帆立貝形古墳で築造時期は五世紀中頃から後半である.

大山古墳の陪塚とされている.


源右衛門山古墳

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円墳で築造時期は五世紀中頃とされている.

大山古墳の陪塚とされている.


永山古墳

前方後円墳で築造時期は五世紀初頭から前半頃とされている.

大山古墳の陪塚とされているが,規模が大きいのでかなり怪しい.


大山古墳(仁徳天皇陵)

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世界最大の面積をもつ前方後円墳で築造時期は五世紀中頃とされている.

この築造時期が正しいならば,被葬者を仁徳天皇とするには難しい.

宋書の記述から考えると倭の五王あたりが年代としては合致する.

墳丘は前方部三段,後円部四段築成,くびれ部に造り出しがあり,三重の濠が巡らされている.

前方部は南西を向いている.

多数の円筒埴輪,形象埴輪が発見されている.

金製歩揺のついた眉庇付冑,金銅製横矧板鋲留短甲など出土したと伝わっている。

堺市博物館

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百舌鳥古墳群シアターや百舌鳥古墳群展示,中世~近世の堺の歴史などが見どころである.

古墳は巨大で全貌をとらえることが非常に難しい.

また,研究成果などは素人にとっては,古墳自体から把握することは難しいので勉強になった.

こちらで購入した「堺の文化財 百舌鳥古墳群」の冊子もじっくり読み込みたい.


グワショウ古墳

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円墳で築造時期は五世紀後半である.

墳丘は二段築成である.

円筒埴輪,形象埴輪,土師器,須恵器,そしてミニチュアの鉄鍬が発掘された.


旗塚古墳

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帆立貝形古墳で築造時期は五世紀中頃とされている.

後円部の南側に造り出しがあり,盾形の堀が巡らされている.

円筒埴輪,朝顔形,衣蓋形,石見型埴輪が採取されている.


石津ヶ丘古墳(履中天皇陵)

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前方後円墳で築造時期は五世紀初旬(出土埴輪から推定)とされている.

墳丘は三段築成,くびれ部に造り出しがあり,二重の濠が巡らされていたことが分かっている.

前方部は南西を向いている.

後円部のみでなく前方部にも埋葬施設があった可能性がある.

履中天皇陵としての確証はない.

陪塚と思われる位置にたくさんの古墳があったが,四基が現存している.


長塚古墳

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前方後円墳で築造時期は五世紀中頃とされている.

墳丘は二段築成,南側くびれ部に造り出しがある.

前方部は西を向いている.

円筒埴輪,朝顔形埴輪,衣蓋形,盾形の形象埴輪が発掘されている.


いたすけ古墳

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前方後円墳で築造時期は五世紀初旬(出土埴輪から推定)とされている.

墳丘は三段築成,南側くびれ部に造り出しがある.

前方部は南を向いている.

保存運動により消失を免れた古墳として有名である.

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現在はタヌキが住処としている.


善右衛門山古墳

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円墳で築造時期は五世紀前半とされている.

墳丘は二段築成で円筒埴輪の中に須恵器の蓋が納められていた.

いたすけ古墳の唯一残る陪塚とされている.


百舌鳥八幡宮

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祭神:応神天皇,配祀:神功皇后,仲哀天皇

神功皇后が外征の帰途,天下泰平を祈願したことにより神社を創建したとのこと.


御廟山古墳

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前方後円墳で築造時期は五世紀前半とされている.

三段築成で南側くびれ部に造り出しがあり,二重の濠が巡らされていたことが分かっている.

円筒埴輪,朝顔形埴輪,衣蓋形埴輪,盾形埴輪,冑形埴輪,家型埴輪,囲形埴輪(囲形埴輪の中に家形埴輪が配置されていた)などが出土している.

後円部からの方から参拝するよう参道がつけられていた.


ニサンザイ古墳

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最も均整の取れた姿の前方後円墳で築造時期は五世紀後半とされている.

くびれ部に造り出しがあり,二重の濠が巡らされていたことが分かっている.

円筒埴輪,朝顔形埴輪,衣蓋形埴輪,動物形象埴輪,土師器壺,須恵器器台,木製品(笠形,鳥形)などが出土している.

造り出しで祭祀が行われていたと推測される.

堀内では短期間に撤去された木橋跡が発見された.

陪塚と思われる位置に古墳があったが,全て消失している.


関口神社

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祭神:塩土老翁神,素戔嗚神,生国魂神

神功皇后が三韓より石津浜に上陸し,塩穴松原にて忍熊王の反乱を平定するべく戦勝祈願したとき,老漁師が赤目魚を献上したことを吉祥の証と喜び,塩土老翁の魂をお祀りせよと詔を発したことにより創建された.


大安寺(大安禅寺)

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臨済宗東福寺派

室町時代1394年に後小松天皇の命により,徳秀士蔭を開山に建立された.

本堂は堺商人納屋(呂宋)助左衛門の居宅を移築したと伝えられている.

鶴図,百日紅遊猿図,松梅図,檜図,藤図,西湖図はそれぞれ,17世紀前半の狩野派の作とされており,素晴らしい.

牡丹花肖柏の供養塔や枯山水の庭など見どころがたくさんある.

たまたま,堺市の文化財特別公開の時期であったので,狩野派の作を見ることができるという大安寺に寄ってみることにした.

百日紅遊猿図は可愛らしく,また見たいと思わせる作であった.

松梅図は道徳の教科書に「画家の苦心」として取り上げられたその作という.


堺市役所21階展望ロビー

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堺市役所最上階,地上80メートルから百舌鳥古墳群を一望することができる.

遠く二上山も見えていた.


以上が2日目の概要である.

この日は天気も良かったので,レンタサイクルで走ることができた.

何度か,道に迷ってしまい,通りがかった方々に親切にお声をかけていただいた.

また,観光案内所やレンタサイクルポートの方々にも丁寧に質問にお答えいただいた.

本当にありがとうございました.


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by Allegro-nontroppo | 2015-12-07 21:40 | 旅行記

和歌山・大阪の旅 1日目

最近,仕事が忙しい.

全く,出口が見えない.

そんな中,忙しくなる前から計画していた和歌山と大阪の旅に出かけた.

何とか,ゆっくりでもブログを更新していきたいと思っている.

1日目は和歌山市の旅である.

ところで市販の和歌山のガイドブックは熊野,高野山,そして白浜に大きくページが割かれており,和歌山市については和歌山城の特集で精いっぱいである.

そこで,和歌山のアンテナショップで市販のものに比べて詳しい無料のガイドマップをいくつか頂いた.

また,スタッフの方にはアドバイスもいただいた.

その節はありがとうございました.

以下,1日目の概要である.


伊太曽神社

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祭神:五十猛命(大屋毘古神),大屋津比売命,都麻津比売命

日本書紀において,五十猛命は父神・須佐男命と共に高天原から天下り,妹神・大屋津比売命,都麻津比売命と共に木種を大八州国に播き,最後に木の国・紀州に静まったという.

また,五十猛命は古事記における大屋毘古神と同神とされている.

大国主神が八十神に命を狙われた際に母神・刺国若比売に大屋毘古神のところに逃げるようにいわれ,大屋毘古神の助言により,助かったという.

伊太曽神社はそもそも,日前神宮・国懸神宮の社地にお祀りされていたが,続日本紀によれば,文武天皇大宝二年(西暦702年)ごろに遷座せられたようである.

地主神が遷座させられ,日前神宮・国懸神宮がその地に鎮まらなければならない理由が何なのか気になるところである.
境内には古墳(下写真)もあり,古い時代から何らかの意味がある土地なのかもしれない.

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こちらの神社ではいのりとみのりの旅の特別プログラム・御垣内参拝,由緒説明と端材を用いたお箸作りに参加させていただいた(上記は由緒説明頂いたおおよその内容である).

伊太曽神社では,木の神を祀っているということで,木材の活用に問題意識を持っていらっしゃるそうだ.

割りばしは現在,海外からの輸入に多くを頼っているが,海外では山を丸裸にするように割りばしを製造している.

また,輸入時のカビ防止のために大量の薬品を使っているそうである.

一方で,日本では端材や間伐木材が利用されないまま捨てられており,これを有効活用できれば,充分,国内で使用している割りばしを賄える量であるそうだ.

また,古木よりも若い木の方が二酸化炭素固定量が多いため,定期的に伐採し,木を植える方が,地球温暖化の進行を食い止めるのにも役に立つとのことである.

端材を用いたお箸作り体験キッドを頂いた.

後日,ゆっくり作成させていただく予定である.


竈山神社

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祭神:彦五瀬命

彦五瀬命は神武天皇の兄であり,大和平定の途上,雄水門で亡くなり,竈山の地に葬られたという.

本殿の奥には被葬者・彦五瀬命と言われる陵墓がある.

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日前神宮・国懸神宮

日前神宮 祭神:日前大神

国懸神宮 祭神:国懸大神

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(上・日前神宮,下・国懸神宮)
日前神宮の御神体・日像鏡と国懸神宮の御神体・日矛鏡は三種の神器の一つ,八咫鏡の鋳造する初度に鋳造された鏡であるという.

一つの境内に全く同格の大社が鎮座している珍しい例である.

総称して日前宮と呼ばれているが,名草の地に鎮まることから名草宮とも呼ばれているようだ.

名草戸畔とのつながりを疑いたくなるところである.

また,この両神社は天皇家を除き,もっとも日本で古い家系の一つとされる紀伊国造家が奉祭している.

鑑みるに日本古代の歴史を読み解く鍵が隠されていそうな神社である.

考察が必要である.


和歌の浦

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724年,聖武天皇が行幸した際に「弱浜の地名を改めて明光浦とせよ.そしてこの地を今後荒れ果てぬよう春秋の2回朝廷から使いを派遣して,玉津島の神と明光浦の霊をお祀りせよ」と詔を発せられた.その際,随行した山部赤人がよんだ歌などから和歌の歌枕として名をはせたという.
写真のような歌碑がたくさんある.
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上の写真は妹背山である.

以下は,和歌の浦に位置している.

万葉館

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万葉集の時代について学ぶことができる.

和歌の浦を詠った山部赤人と有間皇子の変を取り上げた万葉シアターが見どころ.


鹽竈神社

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祭神:鹽槌翁尊

鹽稚神は日本神話において海幸彦に借りた釣り針を失くして,怒りにふれた山幸彦に海神のところへ行けと教え,送り出しました神である.

洞窟のような祠をもつ.

この祠は玉津島神社の祓所であった.

洞窟のような祠部分は古墳の石室を想像するようなつくりだったが,考えすぎだろうか.


玉津島神社

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祭神:稚日女尊,息長足姫尊,衣通姫,明光浦霊

稚日女尊は、伊弉諾・伊弉冉尊の御子であり,地主神で、後世、丹生都比売神とも呼ばれる.

息長足姫尊(神功皇后)が海外出兵した際,稚日女尊が非常な霊威をあらわし,戦勝また航海安全に報い,稚日女尊の御分霊を今の和歌山県かつらぎ町天野の地に丹生都比売神として鎮めた.後に自身も、卯の年、卯の月に玉津島社に合祀された.

衣通姫尊は第19代允恭天皇の后で、和歌の道に秀でた絶世の美女で,第58代光孝天皇の夢枕に衣通姫が現れて和歌の浦の歌を詠まれたため,光孝天皇により合祀されました.以来,衣通姫尊は「和歌三神」の一柱として,崇められてきた.

明光浦霊については既に記載した通りである.

聖武天皇が奠供山に登ったように,玉津島神社の背後の鏡山からの景色はアンテナショップスタッフの方のおすすめスポットである.

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素晴らしい眺めであった.

和歌浦天満宮

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祭神:菅原道真

菅原道真が九州に下る際に立ち寄って歌を詠んだ場所ということだそうである.

小高い場所に鎮座しているので景色はよいはずであるが,日が落ちた後に到着したので景色は楽しめず,残念である.


以上,1日目の概略である.

翌日は和歌山を後にし,大阪へ向かう.


補足1

おもちゃ電車内部

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たま電車
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伊太曽神社,竈山神社,そして日前神宮・国懸神宮は猫が駅長をしていることで有名な和歌山電鐵・貴志川線沿いに位置している.

たま電車とおもちゃ電車の写真を貼っておく.


補足2

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和歌山を代表する川で奈良県では吉野川ともよばれる紀ノ川の写真も貼っておく.

補足3
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通りすがりに眺めた和歌山城である.


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by Allegro-nontroppo | 2015-11-29 23:54 | 旅行記

福岡の旅2015 3日目

2015年の福岡の旅の三日目である.

もっと,早くアップしたかったのだが,バタバタしていて結局今日となってしまった.

この日は一か所だけである.

以下,概要.


国指定 平塚川添遺跡公園

弥生時代中期から古墳時代前期の集落跡である.

平塚川添遺跡は多重環濠をもつ遺跡として必ず取り上げられる遺跡である.

弥生時代後期頃(23世紀)に最盛期を迎えたという.

同時期の遺跡である吉野ケ里遺跡と原の辻遺跡が三姉妹遺跡として交流されているとのことだが,この三つの遺跡の中で低地遺跡は平塚川添遺跡のみとのこと.

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低地遺跡であることが多重環濠を築く理由の一つであったのではないだろうか.
首長館や祭殿など,どのような遺物から判断されたのか気になるところではある.


高床式倉庫1

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高床式倉庫2
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高床式倉庫3
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竪穴式住居
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祭殿
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首長館
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ネズミ返し(模型)
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出土遺物
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体験学習館では平塚川添遺跡の解説をしていただいた.

公園内でもお声がけ頂き,大変親切にしていただいた.

ありがとうございました.


以上が,2015年の福岡の旅である.

福岡は縁深い土地なので何度でも行く機会があるはずである.

福岡には大宰府周辺や朝倉市など興味深い遺跡がたくさんあるので楽しみである.


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by Allegro-nontroppo | 2015-10-12 22:53 | 旅行記

福岡の旅2015 2日目

2015年の福岡の旅の二日目である.

この日は特にそのように計画したわけではないが,貝原益軒や青柳種信,伊藤常足を巡る旅となった.

もちろん,大宰府の歴史をたどる旅としても非常に有意義であった.

以下,概要.


九州歴史資料館

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大宰府史跡みどころ展 貝原益軒 ―大宰府研究の先賢たちー

今年も九州歴史資料館を訪問させていただいた.

開催中の企画展は近代の大宰府の歴史学者である貝原益軒を中心に青柳種信や伊藤常足を取り上げていた.

以前から青柳種信には興味があったのだが,本も手に入りにくいようで結局はインターネットからHPを眺める程度しかできなかったが,良いタイミングで関係の企画展を実施しているということで出かけてきた.

貝原益軒は生まれつき病気がちであったことから薬用植物,動物,そして鉱物等や養生の術に興味を持っていたということで「大和本草綱目」や「養生訓」を著したという.

また,儒学や朱子学を若いころから学んでいた益軒は神道と儒教は一つであると考え,福岡藩内に鎮座する神社の縁起の作成を行った.

さらに益軒は福岡藩に筑前国の地史編纂を願い出,許可されて作成されたのが「筑前国続風土記」である.

大宰府跡や水城跡,大野城跡などには実際に赴き,特に大宰府政庁跡では礎石を調査し,「大門」,「大厦」,「都府楼跡」など具体的に建物を比定した.

青柳種信は「筑前国続風土記拾遺」を命じられ,「大宰府官舎古址」部分に詳細に記した.

種信の弟子でもあった伊藤常足は広範に文献を収集し,大宰府が統治した九州全域の地誌「太宰管内志」を編纂したということである.


非常に興味深い展示であったので,図録なども欲しかったなと思ったが,なかなか作成も難しいのだろうとも思う.

リーフレットはそこそこ充実していたのでそれで我慢である.

九州歴史資料館でしかできないだろう企画展は素晴らしいと思うので,今後も期待したい.


【第29回企画展】 「発掘速報展2015

今年の発掘速報として出土品またはパネルで解説されていた.

以下,興味深かった展示を一つ挙げておく.

呰見大塚古墳

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古墳時代後期(6世紀後半),墳丘径13m(外周溝の外端で33m)の円墳であり、二重周溝をもつ複室構造の横穴式石室である.

また,内部主体の石材に同心円文、

円文、三角文、三角文を意識した X 字状文などが赤色で描かれているそうだ.

古墳からは馬具や猪や鹿の小像が付随する装飾付須恵器が出土しているとのこと.


非常に面白そうな古墳である.

今後,被葬者などの研究が進んでいくのであろう.

楽しみである.


筑前国国分寺跡

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四王寺山のふもとに塔跡の礎石が残っている.

金堂跡に建てられたという堂内には平安時代後期の薬師如来像があるというが,未訪問.


太宰府市文化ふれあい館

大宰府歴史展2015

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水城や大野城の築造から,大宰府の繁栄,少弐氏の時代,中世を経て明治~現在へという大宰府の歴史をコンパクトにまとめられた展示であった.

大宰府についは古代ばかり注目しているため,その他の時代については勉強になった.

ちなみに大宰府研究として貝原益軒や青柳種信,伊藤常足に関する解説パネルにも遭遇した.

入場料無料とはお得である.


大宰府政庁跡(都府楼跡)

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大宰府展示館が併設されている.

発掘当時の素掘り溝や玉石溝,大宰府政庁の復元模型,出土品など見ることができる.

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また,政庁跡では立派な礎石が数多く残っている(上記写真には礎石に置かれた灯篭が白く映っている).

貝原益軒や青柳種信も実際に訪れたのだと考えると感慨深い.

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また筑紫歌壇の万葉歌碑もいくつか見ることができた.


一日目はまぶしいほどの晴れで,引き続きこの日もほぼ晴れであったのだが,夕方ごろから雨が降ってきた.

実はこの日,古都の光というイベントが開催される予定だったようで,到着時に政庁跡には灯篭が既に準備してあった.

しかし,展示館を見終わった後ごろには雨が強くなり,撤収作業を開始されていたようだ.

調べてみたところ,結局中止されてしまったようだが,別日にとり行われたようである.

野外のイベントは天気に左右されるので大変そうだ.


さて福岡の旅はあと半日分残っている.

早めに更新したいが,難しいであろう.


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by Allegro-nontroppo | 2015-10-05 00:57 | 旅行記

福岡の旅2015 1日目

昨年に引き続き(記事はこちら→),今年も福岡で史跡&博物館めぐりをした.

費やせたのは二日と半日程度であったが,大変有意義であった.

今回は1日目についてまとめる.

昨年は奴国関係と水城などをまわったのだが,今年の1日目は奴国同様「魏志倭人伝」に登場する伊都国関連+αである.

以下,概要である.


糸島市立伊都国歴史博物館

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最寄りの波多江駅よりタクシーにて訪れた.

旧石器時代から近代までの糸島地域の歴史に関して展示されている.

もちろん,メインは伊都国に関する展示である.

展示室は撮影禁止とのことなので,上記写真は廊下に展示された甕棺を撮影したものである.


伊都国の前史として,糸島地域では支石墓が集中的していたようである.

支石墓は巨大な上石を複数の石で支える構造をしており,糸島地域では5tを超える上石を用いた支石墓も存在している.

つまりは,当時の糸島地域には多くの人々を墓づくりに動員できる社会体制があったということであるが,この支石墓は弥生文化の拡大とともに消滅してしまったそうだ.


伊都国王墓として著名な「三雲南小路王墓」,「井原鑓溝王墓」,そして特に「平原王墓」に関する展示がメインである.

三雲南小路王墓は江戸時代後期(1822年)に発掘されたことが「柳園古器略考」に記録されていたものを1974年に再発見したという王墓である.

三つの王墓のうちでもっとも古く,さらに銅鏡が57枚も出土している.

この数は古墳時代まで含めても突出して多いそうだ.

展示品としてはガラス勾玉などがあった.

井原鑓溝王墓はやはり「柳園古器略考」に記録されている王墓であるが,現在は正確な位置が分かっていない.

ただし,「柳園古器略考」に記された出土品から,弥生時代後期の王墓であると推測されており,今後の発掘に期待がかかっている.

平原王墓は二対の鳥居状遺構,そしてその東には主体部を挟んだ四本の柱,さらに墳丘から約15mの位置に大柱が一直線に並び,その先には日向峠が位置しているという.

さらに副葬された多数の銅鏡は人的に割られており,破片の幾つかはよそに持ち出された可能性もあるという,非常に興味深い王墓なのだそうだ.

この銅鏡は全て国宝指定されているが,大部分が現物を展示しておられ,壮観であった.

また,発掘時の平原王墓も復元されており,非常に楽しめた.


一番楽しんだのは「伊都国の世界」の展示室であったが,もちろん他の展示室も楽しませていただいた.

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展示室と展示室の間では↑に遭遇してギョッとさせられたり….

帰り際にはボランティアガイドの方に「随分,長い間お勉強されていましたね」とお声がけ頂いたのだが,それくらい楽しませていただいた.

常設展示図録も購入させていただいた(ここでも参考にさせていただいている)が,伊都国について学んでもらおうという意図がよく伝わってくる図録である(展示品個々に関する説明は少ないが….).


三雲南小路遺跡

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伊都国歴史博物館から駅に戻る途中にタクシーの運転手さんにお願いして寄って頂いた.

弥生時代中期末の伊都国王墓で墓の周囲に幅34m,深さ0.50.7mの溝で東西32m,南北31mの方形区域を設けており,江戸時代の発見時には甕棺の上に1.5mほどの盛土があったとされ墳丘があったようである.

(もしも,タクシーの運転手さんにお願いしようと思われる方は糸島市が配布している地図などの準備をおススメします.)


平原遺跡

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こちらも駅に戻る途中で立ち寄って頂いた.

正確には国指定史跡 曽根遺跡群 平原遺跡である.

弥生時代中期初頭の竪穴式住居跡,壺棺墓,木棺墓,弥生時代後期の墳丘墓,大柱遺構,特殊建物遺構,古墳時代前期の円墳,土壙墓,時期不詳の掘立柱建物などが発見されたそうだ.弥生時代終末期の1号墓は14×10.5mの方形区域を幅1.53mの周溝で区画し,排水溝をもつ.

墓壙4.5×3.5m中央に木棺が納められていた.

またこの遺跡より発見された日本最大の白銅鏡は後漢尺で直径二尺,周囲は八咫の寸法で「延喜式・皇大神宮儀式帳」に記された八咫鏡を納めた樋代の寸法がこの径に近いことや「御鎮座伝記」に「八頭花崎八葉形也」と記されていることから原田大六氏は伊勢神宮の「八咫鏡」と同形鏡と推測してられたというように説明されていた.

ヤマト王権や伊勢神宮などとの関わりについても考えなければならない重要な遺跡であることが分かった.


鴻臚館跡

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+αとして訪れた鴻臚館は迎賓館にあたる施設である.

飛鳥・奈良時代には筑紫館などとよばれていたが,平安時代になって鴻臚館に改称された.

鴻臚館は難波や平安京にも設置されたが,遺跡が確認されているのは筑紫の鴻臚館のみである.

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中国系や朝鮮系の陶器のみならず,イスラム系の陶器やペルシャ系ガラスなども発掘されている.

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鴻臚館跡展示館では遺構や出土品が見学できた.


余談であるが,この鴻臚館跡は福岡城址内であり,さらに平和台球場が建設されていた.

福岡ドームが建設され,平和台球場解体後に本格的な発掘が開始され,今でも発掘が続いている.

つまり鴻臚館跡に向かうと,福岡城の石垣などの見学もできてしまうのである.

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福岡城は黒田家の城であるから,昨年の大河ドラマ「黒田官兵衛」関係の説明板等見かけた.


以上,1日目である.

博物館の見学が入ると,やはり時間がかかってしまう.

次回,2日目を更新したい.


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by Allegro-nontroppo | 2015-09-28 18:18 | 旅行記

奈良の旅ー山の辺の道ー 3日目

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センバツ高校野球は3日に閉幕した.

毎年のことながら白熱した戦いで,平日はリアルタイムでTVにかじりつけないのが残念である.

さて,この奈良の旅の時はまだセンバツ高校野球の開会式もまだであったから,訪れた駅に上のような横断幕がはられていた.
天理高校は残念ながら負けてしまったが,きっと夏にはもっと強いチームになって甲子園を沸かせてくれるであろう.

今から楽しみだ.


それでは随分遅くなってしまったが,奈良の旅 3日目である.


石上神宮

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主祭神 布都御魂大神 布留御魂大神 布都斯魂大神

配祀神 宇摩志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命


拝殿(国宝)で正式参拝し,楼門及び出雲建雄神社拝殿(国宝)を神職方から案内,由緒など説明して頂ける“奈良うまし冬めぐり”に参加した. 

神職の方にご説明頂いた由緒等々は以前,書いたもの(以前の記事はこちら→)とほとんど変わらないが,現地で説明頂いたため,さらに理解できたように感じている.

実際に訪れてみて感じたことは主祭神の中でも“布留御魂大神”が特に重要だったということである.

社の至る所に別名“布留社”の名が残っている.

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もう一つは“出雲建雄神社”についてである.

出雲建雄神社含む摂社・末社は楼門前の小高い丘の上に立地しているため,拝殿や石上神宮で最も重要とされる禁足地を見下ろす形になる.

また,御祭神 出雲建雄神は草薙剣の荒魂との説明ではあるが,記紀を読んだものであれば,出雲健との関係を考えてしまう.

石上神宮はヤマト王権の武器庫とも言われた神社である.

石上神宮に関する疑問を解決することはヤマト王権の実態を理解するのに役立つはずである.


大神神社

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御祭神 大物主大神 

配祀神 大己貴神 少彦名神


さて,現在の“うましうるわし奈良”では“大神神社篇”として大々的にキャンペーンが行われている.

個人的にはこれまでのキャンペーンの中でも一位,二位を争うくらい好みである.

石上神宮に続き,こちらも三ツ鳥居(重文)の間近、御垣内にて特別参拝し,宝物収蔵庫,摂社の狭井神社,さらに大美和の杜展望台を神職に案内して頂ける“奈良うまし冬めぐり”に参加した.

また,この大神神社でも神職の方にご説明頂いた由緒等々は以前,書いたもの(以前の記事はこちら→)とほとんど変わらないので,感想中心にまとめてみる.


前に大神神社を訪れたときに,こちらの三ツ鳥居はどこにあるのだろうかと首をひねったものである.

特別参拝しないと直接見ることはかなわないのだ.

拝殿のすぐ後ろなので,案内して頂かない限りは垣間見ることすら無理である.

この三ツ鳥居は普段,扉が閉まっているが1年に1回,元旦に繞道祭で開かれる.

午前零時に禁足地内で神火をきり出された後,祝詞奏上の後,小松明に点し2人の神職が拝殿内を走り出て,拝殿前の斎庭で待つ3本の大松明に火が継がれる.そして,神職と共に山麓に鎮座する摂末社19社を巡拝するそうだ.

一度見てみたいものである.
大神神社の三ツ鳥居は撮影不可なので,参考までに檜原神社(大神神社の摂社or末社である)の三ツ鳥居を貼っておく.

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宝物庫では大神神社や付近で発掘された遺物などを見ることができた.

有名な子持ち勾玉もその一つである.


摂社・狭井神社では有名な鎮花祭の説明を頂いた.

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昔は春の花が飛び散るとき,疫神が一緒に分散して病気を流行させるので,これを鎮めるために行われるものらしい.

三島由紀夫の“豊穣の海”にもこの祭の場面があるようだ.


最後に大美和の杜展望台に向かった.

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展望台からは三輪山(写真は三輪山)はもちろん,大和三山や二上山まで見晴らすことができる.

木々の間からは想像以上に大きく箸墓古墳を見ることもでき,古代におけるこの地の重要性を感じることができた.

最後に摂社or末社の磐座神社である.

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この地では古くより磐座信仰があったであろうことを証明している神社である.


春日大社

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御祭神 武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神

春日大社は奈良時代,平城京鎮護のために鹿島神宮から武甕槌命を奉遷したという始まりをもつ藤原氏縁の神社である.

春日大社についても何回かこのブログ(以前の記事はこちら→)で取り上げた.

比売神とはどこの比売なのかなど疑問はあるが,今回,春日大社を訪れたのは理由がある.

現在,春日大社は式年造替の真っ最中であるが,それに関連して,春日大社御本殿の特別参拝をすることができるのだ.

また,特別公開も行われている.

時期によって公開されるもの,場所等々は変わるようで,私が訪れた時には禁足地・御蓋山浮雲峰遥拝所での参拝,約140年ぶりに後殿御門を開門,重要文化財「藤浪之宮」で万燈籠を体感ということが可能であった.

御蓋山浮雲峰遥拝所

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後殿御門からのぞいたところ


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万燈籠

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よい体験をさせて頂いた.


これにて今回の奈良の旅は終了である.

行ける限りなるだけ見て回ったが,まだまだ奈良には行ったことのない場所がたくさんある.

特に古墳・陵はほとんど行けていない.

次の機会を早めに作りたいものである.




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by Allegro-nontroppo | 2015-04-05 20:55 | 旅行記