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考古学から見た律令国家の成立

「考古学から見た律令国家の成立」を受講した.

講師は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 主任学芸員 重見 泰氏である.

随分,時間は立ってしまったが,一応まとめておく.


飛鳥に宮殿が造られた時代を飛鳥時代とされる.

推古天皇が飛鳥近くに移ってきた.

その後,宮殿が難波に移ったあとも板蓋宮は管理されており,後に岡本宮が造営される.


飛鳥板蓋宮史跡

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Ⅰ期

南北に対してななめに造営されている.

焼失.

Ⅱ期

Ⅰ期を埋めた後、南北に対してまっすぐに造営された.

土器などから板蓋宮の時代と一致している.

柱を立てるための埋め土がまっ黒…板蓋宮が建つ前に火災

柱の穴がまっ黒…板蓋宮が火災


乙巳の変

舞台は板蓋宮大極殿となっているが,当時は無かった.

甘樫丘の蘇我氏邸宅炎上(日本書紀には匂わす程度)


甘樫丘東麓遺跡

焼けた壁土や土器片,建築具材(645年に近い)…乙巳の変の時代とほぼ変わらない→炎上に関するだろう.

ただし,蘇我氏の巨大邸宅跡はまだ見つかっていない

高温をうけてカチカチの土→炉,炭灰,工房跡が発見されている…乙巳の変当時の火災跡か分からない.蘇我氏邸宅か疑問.

土器については645年のものと判明しており(問題ない),この土器と比較して難波宮を探す.


阿武山古墳

被葬者 4060代男性

玉枕(銀の針金,ガラス玉),金の糸(ぼうし)出土.

玉枕は斉明,天武,持統陵に有.

刺繍する冠帽は最上位・織冠またはそれに次ぐ繍冠のみ.

織冠を授けられたのは豊璋と中臣鎌足のみ.

鎌足は56歳で亡くなっており,また多武峰縁起に阿武山に葬ったとある.

ただし,その後,墓を移したという記事もある.


難波宮

・前期…瓦を使っていない,後の宮殿と比べて巨大.

・後期…瓦を使っている.

朝堂院…前期のものと言われているが,構造が立派すぎると疑問視されている.

八角殿…難波宮での大きな特徴.

北側の台…戌申年の木簡出土.

直径70cmの掘立柱(門)→飛鳥時代は掘立柱が主流.正面だけ立派で少し離れると板塀.平安京も同じ.


贄か調を示す木簡の出土

万葉仮名が書かれた木簡…7世紀中頃に成立

並び蔵(正倉院のような造り)→難波大蔵(日本書紀)

漆容器→奈良時代の例から大蔵省が管理した可能性が高い.

朱鳥元年正月 焼失

谷に燃えた壁土,建築具材が捨てられていた.


大津宮

市街地となっており,あまり調査が進んでいない.

宮のすぐ側まで,湿地,沼地であった.

渡来人の居住地であり,生産力が高い.

特定の氏族との関係.

綿織遺跡…地中で連結

柱二つを連結して掘っている.

五間門のパターンと一致…飛鳥の宮殿を1回り小さいもの.

ここから,復元案を見直す試み

穴太廃寺…もともと南北に対してななめに造られていたが,遷都以降真っ直ぐに建てられた.

壬申の乱で有名な勢多橋は発掘中.


飛鳥浄御原宮

天武天皇はなぜ新しく造らなかったのか.

後岡本宮では宮室,大宮,エビノコ槨を増築.

大王の空間と群臣の空間…天皇選出の場を作った

歴代遷宮の歴史に終止符.

天皇の支配体制

天皇の居所が定まって,初めて「都」

→新城造営の急展開…律令国家の整備

岡本宮踏襲…群臣推挙の否定

新城,新益京,藤原京(周礼による)

→藤原京が完成していなかった.

天武天皇は新宮城の造営に着手していた→藤原京に引き継がれた.


国家体制の立て直しは急務.

東アジアにおける国際的な地位を確保.

天武天皇の理想的な国家建設の流れ

藤原京,平城京,律令国家へ.


以上,受講メモである.

各遺跡の発掘成果から天武天皇の考えを追うのも面白いものである.


by Allegro-nontroppo | 2015-01-19 20:44 | 講演会,シンポジウムなど
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