連続講演「伝えたい世界遺産「吉野」の魅力」(第6回) 「吉野と嵐山の縁 ~後嵯峨/亀山上皇と吉野と嵐山」を受講した.
講師は金峯山寺宗務総長 田中利典氏である. 田中氏といえば,先日の金峯山寺の夜感拝観(本ブログ記事はこちら→吉野への旅一日目 ~金峯山寺蔵王堂~)にて素晴らしい声明を取り仕切っておられた. では,以下が概要となる. 吉野を訪れた人々 ―神武天皇,古人大兄皇子,斉明天皇,大海人皇子,持統天皇,役行者,空海,聖宝(空海の孫弟子にあたる),宇多上皇と菅原道真(もっとも古い天満宮がある),藤原道長,白河上皇,西行,源義経と静御前(冬の四日間),後醍醐天皇と護良親王,豊臣秀吉と徳川家康,本居宣長,芭蕉など 朝廷から逃げる場所であり神仙の地であった. 役行者と蔵王権現と桜 修験道の開祖役行者については続日本紀に記載がある. 蔵王権現は神と仏の融合である(元々,仏様と神様をわけていなかった). 権は仮,現は現れるということでアバターである(本地と権現). 吉野の桜は蔵王権現のご神木・山桜である. 吉野山と嵐山の縁 ①後嵯峨天皇と仙洞亀山殿 ・院は西郊亀山の麓に御所を立て亀山殿と名付,常にわたらせ給ふ.大井河 嵐の山に向ひて桟敷を造て,向の山には吉野山の桜を移し植られたり.自然の風流,求めさるに眼を養ふ.まことに昔より名をえたる勝地と見たり. ~『五代帝王記』 ・亀山の仙洞(亀山殿)に吉野山の桜をあまた移し植ゑ侍りしが 花の咲けるをみて 「春ことに 思ひやられし 三吉野の 花はけふこそ 宿に咲けれ」 ~『続古今和歌集』第二 後嵯峨上皇御製 ・吉野山の地名も移植(吉野山下千本に嵐山,ほおづき尾→保津峡など) ②後醍醐天皇と南朝(吉野朝)(1333~1348年) 大塔で相談し,吉水院(一番偉いお坊さんが入る)で南朝をたてる. ③仙洞亀山殿(天龍寺)と後醍醐天皇 亀山上皇は後醍醐天皇と同じ大覚寺統であり,さらに南朝の地,吉野と縁の深い仙洞亀山殿跡に後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏が建立した(方丈の北側に亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある). 現在 京都・嵐山に蔵王堂有り(案内人がいないといけない). 嵐山もみじまつり→蔵王権現への感謝 10月15日…南朝の天皇を弔うため,金峯山寺は毎年正式参拝している. 以上が講座の概要である. 今年,一月に天龍寺を訪れている(本ブログ記事はこちら→飛鳥・京都旅行記 2日目 )のだが,お話にあったようなことを知らず,漫然と天龍寺の美しさなど眺めてきてしまった. 思いつきで出かけたようなところがあるのだが,このようなことがあるときちんと調べて出かけなければならないと改めて思う. 金峯山寺蔵王堂の夜感拝観(本ブログ記事はこちら→吉野への旅一日目 ~金峯山寺蔵王堂~)でも田中利典氏のお話があったのだが,記事にしていなかった. ここにその時のお話とまとめて記載しておく. 御嶽山は修験道と縁の深い山である(吉野山…金の御嶽から名称がきている). また火山性微動が観測された蔵王山は蔵王権現を祀ったことでその名がついたのである. それだけでなく東日本大震災や打ち続く豪雨など,近年,自然災害が多発しているように思われる. しかし,そもそも日本は自然災害の多い国であり,これまで日本人も当然,自然災害にあいつづけてきたのである. ところが,明治以降,西洋化に伴い,一つの価値観が正しく,良いものとしてきた. この考え方は限界に達しているのではないだろうか. それぞれの風土を大切にする,本来の日本の考え方を取り戻すべきである. 多様な価値観を認めるというのは日本人の世界に誇れるものの一つであったが,現在はそれが少々行き過ぎて,我々本来の価値観を見失ってしまっていることは常々,私も感じるところではある. グローバリゼーションは結構であるものの,日本人固有の価値観について見なおすことも重要であろう.
by Allegro-nontroppo
| 2014-12-14 19:18
| 講演会,シンポジウムなど
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