知ってるつもりの東大寺ー聖武天皇と光明皇后ー

奈良学ナイトレッスン「知ってるつもりの東大寺 聖武天皇と光明皇后」を受講した.

講師は西山厚氏(帝塚山大学教授)である.

西山氏は「伊勢から春日へ」の鼎談 (当ブログの感想はこちら)でコーディネーターを務められていた方だったと思う.


お話は聖武天皇から

聖武天皇はどうして奈良の都に大仏を決意した理由として

「すべての動物,すべての植物が,ともに栄える世の中を作りたい」

全ての人間が共に栄える,みんなが幸せになる世の中はありえないと講師は考えているが,聖武天皇は本気でできると考えているためにとても苦しむことになる.


大きな大仏やその大仏殿を作るのはとても大変である(奈良時代の大仏殿はもっと大きかった).

しかし,聖武天皇は…

「大きな力で造るな,たくさんの富で造るな」

「一本の草を持ってきた人にも,一握りの土を持ってきた人にも手伝ってもらおう」

大きな力・富は何の意味があるのか,害悪にしかならない.

自分には何もできないかもしれないが大仏建立を手伝いたいという人が次々とあらわれてくれることが聖武天皇の望みであったのかもしれない.

極端に言えば,大仏はできなくても構わないと考えていたかもしれない.


聖武天皇はどうしてこのような考え方になったのか.

旱魃・飢饉・大地震・病気(天然痘)・内乱などが起きた時代であった→責めはわれ一人(聖武天皇)にあり.

自分の政治が悪いから天が災いを起こすと考えた.

牢屋に囚人がいるのは自分の政治が悪いからである.

みんなが幸せになってほしいのに,現実は逆→自分のせいである.


701
年 首皇子誕生(父:文武天皇,母:藤原宮子…古代日本のオールスターの血をひいている).

707年 文武天皇崩御

母:宮子は首皇子誕生後,心を病んで宮中奥深くにこもってしまう.

→聖武天皇は父母をしらない.

724年 聖武天皇即位する.

奈良時代は肖像画のない時代(平安時代後半から肖像画ができはじめる).

聖武天皇の肖像画,肖像彫刻はない.


聖武天皇が即位して行った仕事

社寺の清浄を命じる.

神を敬い,仏を尊ぶることは清浄を先とする(寺社の境内がくさい.動物を飼っている).

死刑・流刑の軽減を命じる(重い刑罰を与えると更正しない).

諸国の重病人を治療・穀物を与えなさい.

豊作を喜び,田祖を免除する.

善政の官人に褒美を与える.


727
年 皇子誕生…生まれて間もない皇子を皇太子にした.

病気の皇太子のために177体の観音菩薩と観音経を177回写経したが,一歳を迎える前に亡くなった.

奈良時代は6歳になる前に亡くなった子供のお葬式をやってはいけない.

皇子の冥福を祈る…平城京の東端の山房→後の東大寺

皇子の前に女の子を生まれていた.

奈良時代は7人天皇がいたが,そのうち4人は女性天皇.

ただし,基本は男性が天皇となる.

740年 聖武天皇,光明皇后 河内国の知識寺で盧舎那仏を拝し,大仏造立を決意

知識:仏教の信仰の下,様々な活動をする人,その人たちが作ったもの.

どのように作ればよいか,分かった.


741
214日 国分寺(金光明四天王護国之寺:金光明最勝王経)・国分尼寺(法華滅罪之寺:法華経)建立の詔

国分寺・国分尼寺のお坊さん,尼さんは国家公務員.

金光明四天王護国之寺…四天王があらわれて国家を守ってくれる.

法華滅罪之寺…国家の罪を消し去る.

大和国の国分寺=東大寺


中国の国分寺のモデル(男性の寺しかない)

大雲寺 690年 則天武后

龍興寺 707年 中宗

→道慈(遣唐使)が伝える.

開元寺 738年 玄宗

→玄昉が伝える(聖武天皇は知らなかった).


743
年 大仏造立の詔


752
49日 大仏開眼

260万人が協力(当時の日本の人口は500万人)→小さな力をたくさん集めてできた.

開眼:仏像に魂を入れる儀式


お話は光明皇后へ

父:藤原不比等,祖父:藤原鎌足(大化の改新の立役者)…古代日本を代表する最も優れた政治家.

鎌足:仏教の信仰の厚い人で「釈迦三尊」を作った→興福寺の本尊となる.

不比等:奈良時代の日本を形作った人.

光明皇后は「妾の珍財,これに過ぎるものなし」(公文書:不比等の書を東大寺に献納した際)

745年 法華寺の建立(大和国の国分尼寺)

光明皇后は亡くなった不比等の家を寺に作りかえる.

法華寺の本尊は十一面観音

室町時代の本に光明皇后の姿をうつしたといわれる(女性的な像:光明皇后のイメージで造られた?).

手が長く,蓮台から右足が外に出ている.


母:橘三千代…不比等と再婚し,光明皇后が生まれる(前の夫との間に三人の子供).

現代日本では橘三千代のような境遇の女性の子供が皇后になることはできない.

奈良時代は男女平等であり,平安時代中頃から男尊女卑になっていく.

平安時代半ばから国分尼寺の尼さんが国分寺のお坊さんの洗濯などをし,最終的に国分尼寺はなくなってしまう.


733
年正月11日 橘三千代死去

仏教の信仰があつい→光明皇后への影響?

光明皇后,母の冥福を祈り,興福寺に西金堂を建てる.

西金堂は碑のみが残る…阿修羅は西金堂に安置されていた(火事のたびに助け出されていた).

仏像は悲しみや苦しみの中から造られる.

八部衆…興福寺でのみ少年の姿→死んだ我が子のために作ったから?

沙羯羅像…6歳くらいの姿→死んだ皇子が生きていれば6歳.

737年 天然痘の大流行…藤原四兄弟(四人とも大臣)相次いで没.


お話は大仏へ

740年 聖武天皇が平城京を4年以上離れる.

聖武天皇は考えがあって平城京を離れたのではないか?

大仏を平城京ではないところに建立しようとしていた!

天武天皇が通ったコースと同じコースを通っていく.

伊勢神宮を遥拝する.

恭仁京…都の真ん中を川が流れている(洛陽と同じ).

洛陽から少し離れた竜門に大仏がある.

洛陽をモデルにしたい!

しかし,官僚全員にアンケートをとった結果,ほとんど全員が平城京に戻りたいと言ったために,平城京に戻ることになる.

(聖武天皇も肉体労働を行い,大仏を造り始めていた.)


天平18106日 金鐘寺(後の東大寺)で15700もの灯をつけた→大仏の原型ができた.

数千人を集めて法要が午前二時ごろまで行われた.

大仏:土で原型を作り,銅を流し込む.

東大寺:平城京の東にある大きな寺.

完成の三年前,作りかけの大仏の前で聖武天皇「三方の奴である」という.

光明皇后,皇太子,役人たち,一般庶民の前で宣言した.

聖武天皇は皇太子に位を譲る際に,「天皇を奴にしても,奴を天皇にしても良い.好きにせよ」という.

聖武天皇には身分の差というものがない.


盧舎那仏は華厳経に出てくる.

聖武天皇は華厳経が一番大事だと言っていた.

華厳:人の行い又は存在で飾るという意味.

蓮華雑世界:既に華で飾られているが,私たちが私たちの実践で飾っていこう.


752
49日 大仏開眼

菩提僊那(インド人):魂を入れた…筆に青い紐を結び,みんながこの紐を握って結縁を結んだ直前まで聖武天皇(既に出家していた)が自分で入れようと思っていたが,病気でできなかった(321日に断念).

菩提僊那しか頼める人がいないので断らないでほしいという手紙を書く.

4月8日に予定されていたが,聖武天皇の具合がとても悪く延期された?

大仏開眼の際に光明皇后が身に着けていた冠の飾りや聖武天皇がはいていた赤い靴が正倉院に納められている.

大仏ができた4年後に聖武天皇は亡くなる(病気がちであった).

光明皇后が聖武天皇の大事にしていたものを大仏に献納した.

光明皇后が目録を作った.

目録の筆頭は聖武天皇の御袈裟で最後は御床が二つ(聖武天皇と光明皇后のベッド).

御床は両床に亘る覆一條(二つのベッドのためのベッドカバー)も納められており,ここから御床二つはくっついていたことが分かる.

聖武天皇と光明皇后のお墓はくっついている(天皇皇后のお墓がすぐそばにあるのは聖武天皇と光明皇后のみ).

光明皇后は目録に「目にふれると,くずれ,くだけてしまう」と書いており,聖武天皇の遺品を全て大仏に献納した.


聖武天皇の筆跡(「雑集」)が残っている.

聖武天皇の筆跡(「雑集」)を使って奈良国立博物館の看板を作っている.

光明皇后の筆跡も残っている.

楽毅論を臨書しているが,脱字が三か所あり,順番を間違えている.

さらに臨書の年を間違えてごまかしたような跡がある.


光明皇后は聖武天皇の遺品を献納した際に六十種類の薬も献納しており,使って下さいということで実際に使われた.

どんな病も治る,どんな苦しみもなくなる,心の病,体の病も治る,どんなものも治る,夭折することなしと書いて添えている.


730
年 光明皇后が悲田院・施薬院を作る→子供が死んだ二年後.

723年 悲田院・施薬院が興福寺に作られる.

720年に不比等死去,翌年橘三千代が出家という背景から橘三千代が作ったのではないかと講師は考えている.

757年 孝謙天皇が施薬院に土地を寄進(テコ入れ)→聖武天皇が亡くなった翌年.


平安時代の伝承

東大寺,法華寺を建立し終えた光明皇后が天の声から法華寺に湯屋を作るよう言われ,湯屋に来る人々の垢を流そうと誓うが,みすぼらしい恰好の人がやってきたので躊躇していると,「誓いを破ることになるぞ」と言われたので,流し終えた後に「こんなこと誰にも言ってはダメよ」というと,「阿閦如来が垢を流してもらいに来たことは誰にも言ってはならぬ」と言って光り輝き飛び去って行った.


あとの時代になるともっと過激になる.

光明皇后が千人の体を流すという誓いをたてたが,千人目に体中膿だらけの病人がやってきたので体中に唇をはわせ,膿を吸い出した.病人は阿閦如来の姿となって光り輝き飛び去って行った.


光明皇后が救済活動を行ったのは本当である.


歴史を勉強するときに大事なのは「他人ごとにしない」ということであるというお話があった.

もちろん受験勉強のようなものであればその必要はないだろうが,当時の状況を自分自身に置き換えてみることは重要かもしれない.

非常に興味深いお話であった.


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by Allegro-nontroppo | 2014-09-17 19:12 | 講演会,シンポジウムなど
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