東京都江戸東京博物館に出かけた. 見に行ったのはもちろん「マーニー展」ではなく「日本発掘-発掘された日本列島2014-」である. たまたま第一部の「発掘された日本列島展」20年の歴史と優品の数々について,文化庁の方の展示解説に行きあったのでついてまわった.
今回唯一の国宝ということである. アスファルトを接着剤として利用している. 手を合わせている様子から合掌土偶と言われているが,お産のシーンをかたどっていると言われている. 平安時代は座産であったことが文献(山幸彦の乙姫様の出産)から分かる. この絵巻物では侍女がお皿を積んで踏み割っている. また,屋敷の外では弓弦を鳴らしている. 出産のときにやってくる鬼を追い払うため,音で驚かしている. また,土偶の9割は女性である. 出産儀礼のお祈りのための道具だったとも言われる.
大阪府高槻市史跡今城塚古墳より出土. 継体天皇のお墓と言われている. 埴輪は葬送儀礼を表しているといわれる
牛・・・動物埴輪の中では数が少ない 鶏や水鳥の埴輪が多い 夜は死んだ人や神の世界で朝は生きている世界,鶏がその境を告げてくれると当時は信じられていた. 箸墓古墳:夜は神つくり,昼は人つくる. 昼は埴輪の馬が夜は馬となって走り出す(日本書紀) 全国の古墳で出ている. 最初の相撲に関する文献は景行天皇(古墳時代):當麻蹴速と野見宿禰 ルール無用の相撲一週間 當麻蹴速,腰の骨を折って絶命させる. 天覧相撲の起源・・・奈良時代(相撲所と書かれた土器が発掘されている)
祠・・・穂倉が起源 神さまに備えるための穂を入れた場所が高床倉庫,つまり神聖な場所である. 神の代弁者=偉い人の家の住む場所に代わる. 日本霊異記・・・雷を捕まえた男の話→雄略天皇の屋敷が高床式(高倉)であった(梯子を上って行ったため) ごてごてした屋根は伊勢神宮などの屋根の形と同じである. 高貴な人の住まいは立派な屋根であり,屋根の形によってどんな建物か表していた. 古代の日本人は屋根の形にこだわった. 雄略天皇は大和を歩いていた時に自分の住まいの屋根と同じ屋根を見つけて焼打ちにしている.
中にはどんぐりが入っていた. 佐賀県東名遺跡出土で時代は縄文時代の初め. 木で作ったものや人の骨は残りにくいが,100%に近い湿度があるときにのこる. 東名遺跡は海抜0m地帯である.
すりつぶして鳥肉と混ぜて食べたりしていた. どんぐりピット(どんぐりの詰まった穴)・・・貯蔵しておいたどんぐりを食べなかった. 縄文時代は貝塚の貝や骨の量から食べたくなったら取りに行けば食べられる時代であったことが分かっている. 食べ飽きるほど食べ物があった.
板状土偶はこの地域に特有なもの.
あまりに大変なので途中で辞めたものも見つかっており,この穴の底は出べそ状になっている. 植物繊維の硬いところは深いが柔らかい中心は少し残ってしまう. 真ん中まで行ったら,裏からまた穴をあける. 下手な人は穴がかみ合わない. しかし,失敗作をみることで初めて当時の技術が分かる.
新潟県の限られた地域で4500年前の限られた時期のみつくられていた. 神さまに備えるための特殊な土器と言われていたが,全てがこの形で煮炊きに使っていた痕跡があることから,普通に使っていたと思われる. 分厚いので熱効率も良くないはずだが,なぜかこのような土器が流行っていた. 理由はよく分かっていない.
イモガイ(毒がある)を縦割りにした腕輪. 腕輪をつけた女性の人骨が多数出土している. 腕が入らないほど小さいサイズなので子供のころにつけて,死ぬまでつけっぱなしか? 腕輪を通している手の骨が砕けている人骨も見つかっていることから,死後に無理矢理装着させている可能性もある. 腕輪には傷がほとんどないので,死後につけたか,王族につけたような可能性がある. ほとんどが左手に装着しいているため,右の腕輪は生きている間に壊れてしまった可能性も考えられる. 古墳時代には腕輪は石で作られるようになり,最終的には腕にはつけずに亡くなった人の横においておいたり,棺桶に粘土をぬって張り付けたりしている. 飛鳥時代には廃れていく.
この地域では一回埋葬し,骨になった段階で骨壺にいれて埋葬する再葬を行っていた. この顔は刺青を表現している. 魏志倭人伝にも書かれているが日本ではある程度権力がある人が刺青をしていた. この骨壺はこの地域の権力がある人の顔をかたどったのではないかと言われている. 中国では犯罪者に刺青をいれていた.
弥生時代の代表的な遺物. 最初の銅鐸は聞く銅鐸で木につるして,ひれを持って振って音を鳴らす. 銅鐸の舌が一緒に出土した例や銅鐸の中が何かで傷ついていたりすりへったりしているものも出土している. サイズが大きくなって,拝むものとして使われるような見る銅鐸への変化する. そして銅鐸の祭祀が終わり,粉々に打ち壊されたものが発掘されている. 弥生時代の神である銅鐸から新しい神である鏡・剣・玉を迎え入れた.
記紀にはヤマトタケルノミコトが亡くなった時に白鳥が飛び立って,近畿の方へ飛んでいく話がある. 亡くなったミコトの魂が故郷に帰ったということ 白鳥などの渡り鳥が多い. 水かきまで表現されているものも発掘されている. 水鳥の埴輪は近畿に多く,関東に少ないため,当時の人の死生観が地域によって違っていた可能性がある. 今後の研究が期待される.
非常に貴重 四軒の家を鏡の文様にしている. この屋根の形も家形埴輪と同じ形をしている. 高貴な人の使う衣笠が立てかけられているため,家も高貴な人のものであろう. 軒には鳥がとまっている. 日本では家形模様この一面のみである.
飛鳥時代. 木で芯をつくり,植物繊維を混ぜた粘土をくっつけていき,きめの細かい粘土をはりつけて完成させる. 通常は土で作られた塑像を埋めると発掘することはできないが,山田寺は12世紀になって焼けたために,焼き物の形で残った. 建築素材は寺のそばにまとめて捨てられていたが仏の類は裏山の麓に大きな穴を掘って埋めており,ゴミと一緒に捨てずに供養していた. 興福寺の阿修羅も塑像である. 飛鳥時代は平和な時代で武力ではなく先進の文化を見せつけることで周りを屈服させる. 飛鳥時代のひとは先進の文化をどんどん取り入れていた. その一つが仏教であり,飛鳥のまわりには四十五,六の寺が建てられていた. 瓦葺,柱は朱塗りという当時では特殊な建物であった. 伊勢神宮はお寺のことを瓦葺と呼んで蔑んでいた.
国際貿易港として古くから栄えた. 継体天皇の時代に那の津の屯倉として国の直轄地となっていた. その後,鴻臚館から貿易商人の町へ. 中世になると博多を巡って争い,争奪戦が起きる. 貿易商人たち(中国人もいた)は戦乱が起きると自分たちの財産がなくならないように穴をほって隠していた. 戦争が終わったら掘り出して商売品として取り扱う. この遺物は隠したまま掘り起こされていないので,貿易商人は戦乱に巻き込まれた可能性が高い. この遺物は九州ではたくさん出土していることから,九州では安く買えたが,他の地方(大阪や関東)では値が上がった. 博多の商人たちが手広く商売をしていたという記述も残っている. 中国製品のようなめったに手に入らないものを売りさばいて巨万の富を手に入れていたと考えられる.
平安時代になると,中央や貴族の命令で中国の焼き物のまねをし始める. 国家の力が衰えると下火になるが,焼き物で儲ける人が出てきて,自発的に焼き物を焼くようになる. 15世紀になると独自の焼き物を作るようになる. 15世紀末には茶の湯の流行をうけて天目茶碗など茶道具の代表的な生産地になる. 当時,他の産地では日用雑器は作るが,嗜好品はまだ作られていない. その後,織田信長によって美濃に連れていかれて美濃焼や織部焼などのルーツになる. 江戸時代になると,尾張の徳川家が陶工たちを瀬戸に戻す. 尾張徳川家は茶器生産をバックアップしたようで,茶器などの遺物には尾張徳川家の家老たちの名前が書かれているものもある. 江戸時代の終わりにはパリの万博に瀬戸焼が展示されたり,西洋の陶器をまねて磁器生産を始める.
展示内容から派生する部分についても説明していただき,非常に面白い解説であった. それにしてもなぜ,この「日本発掘」が江戸東京博物館で行われたのであろうか. 博物館のコンセプトとあっていないように感じてしまうのだが. まあ,「マーニー展」の方がより謎ではある.
by Allegro-nontroppo
| 2014-08-26 20:18
| 博物館
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