古代ミステリー紀行 第3回 「荒れ狂う藤原広嗣の怨霊」を聴講してきた. 連続講座であった古代ミステリー紀行を無事,全ての回,受講することができたことになる. 今回の舞台は鏡神社である. 鏡神社は新薬師寺のすぐそばに位置しており,祭神は藤原広嗣である. 本社は佐賀県唐津市鏡の鏡神社で,808年に広嗣鎮魂のため,また新薬師寺の鎮守としてこの地に勧請されたとのことだ.
当時,政権の主流にあった宇合を含む不比等の四子は737年に相次いで天然痘で亡くなっている(詳しくはこちらの記事へ→). その結果,政権の首班は橘諸兄となる. 橘諸兄は敏達天皇の子孫で元の名前を葛城王といい,後に母の橘宿禰を継ぐことを願い許可され,以後は橘諸兄と名乗るようになった. ちなみに諸兄の生母・県犬養三千代(橘三千代)は諸兄の父・美努王と離別し,藤原不比等の後妻となり,光明子らを産んでいる. ただし,上記の不比等の四子の生母ではない.
大弐の高橋安麻呂は遙任であったし,帥(長官)は空席であったから,広嗣は実質的な長官の代行者であったと考えられる. また,大宰府は九州九国と壱岐・対馬・種子島三島を統括する役所であり,軍事的機能を備えていた. よって,左遷と言えるのか(広嗣は当時,大養徳守であった)は疑問である.
藤原広嗣の乱の勃発である. 9月3日には都に上奏文が到着し,朝廷は謀反と判断. 大野東人を大将軍に任じ東海道,東山道,山陰道,山陽道,南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じた. 9月21日,関門海峡に達した大野東人は,9月22日,勅使佐伯常人らに兵4,000人を率いて渡海させ,板櫃鎭(豊前国企救郡)を攻略. 9月29日,全九州の官人・百姓にあてて勅が発せられる. 10月9日,広嗣軍1万騎が板櫃川に到り,大規模な戦闘が起こる. 敗走した広嗣は船に乗って五島列島を経て新羅へ逃れようとした. ところが船が進まなくなり,風で吹き戻されてしまう. 10月23日,松浦郡値嘉嶋(五島列島の古い名称)で広嗣捕縛. 11月1日,広嗣,肥前国松浦で斬刑される.
広嗣の乱は壬申の乱以後,初めての大規模な戦乱であるにもかかわらず,聖武天皇は乱の終結を待たず,伊勢行幸を行うのである. 大野東人への勅を発す. 「朕,意ふ所有るに縁りて,今月の末暫く関東(鈴鹿関・不破関の東)に往かむ.その時に非ずと雖も,事已むこと能はず.将軍これを知るとも驚き怪しむべからず.」 10月29日,聖武天皇平城京を出発.元正太上天皇,光明皇后も同行. 11月2日,伊賀国を経て,伊勢国の河口の行宮に到着.狩りなどをしながら10日間滞在. 11月3日,聖武天皇,広嗣捕縛の報を得る(翌日,広嗣処刑の報). ※北九州から伊勢の河口まで約700 kmを四日四晩で連絡. 聖武天皇 美濃,近江,山背へと行幸. 12月15日,聖武天皇,恭仁宮に行幸して都の造営を命ずる. 741年正月 聖武天皇,恭仁京において朝賀を受ける. →一時期難波京を都とするが,745年5月の平城京復都まで聖武天皇は5年間,平城京に戻らない→聖武の大彷徨 (聖武の伊勢行幸の理由は不明)
松浦廟宮→佐賀県唐津市鏡の地に鎮座する鏡神社 祭神 一宮に神功皇后,二宮に広嗣 但し参道正面に二宮があり,一宮は横を向いている→配置が不自然 745年,聖武天皇の叡慮によって建立. 835年の太政官符→「肥前国松浦郡の弥勒寺知識寺の荒廃を修治させるため,五人の僧の任用を求めた大宰府の解に対して発せられた官符」に知識寺の建立についての記載有. ・天平十七年十月十二日の勅符…僧二十人が置かれ,水田二十町が施入.「救遊霊」の記載→広嗣の亡霊?鏡神社に弥勒知識寺が併存したか? 知識寺→広汎な唱導活動によって,財物の喜捨を集め,それを知識(信者が金品を寄進すること,またその寄進者)として寺の造営がなされた.→知識結 「松浦廟宮本縁起」…本来,広嗣の政敵であるはずの吉備真備が鎮めたという伝承. →真備は広嗣の師 「一日為師.終身為父.一字千金.二世恩重」の言葉. *「薬師寺縁起」にも「一字千金」=師恩の厚さ(大津皇子の怨霊も一字千金で鎮まる=当時の流行)
橘諸兄の政権は瓦解し,玄昉は藤原仲麻呂により筑紫観世音寺別当に左遷,その後の不思議な死. 観世音寺の北側に玄昉の墓. 玄昉…義淵の弟子,法相宗の僧,入唐学問僧,在唐十八年.帰国後常務天皇の信頼を得て,吉備真備とともに橘諸兄政権の側近に.人格に問題ありと批判. 玄昉は筑紫観世音寺の供養に際して,導師として腰輿に乗っていたところ,突然大空からその身を補足され,忽然として姿を消したが,後日,その首が奈良の興福寺唐院に落ちた(「続日本紀」,「扶桑略記」,「平家物語」,「源平盛衰記」など). 頭墓…「頭塔」 天平石仏十三体が残る土塔の跡. 玄昉の遺骸→バラバラになって興福寺の境内に落ちたとする口碑. 今昔物語集にも記載有.
式内社赤穂神社,新薬師寺の門前右手 十市皇女を摂社に祀る. 十市皇女は赤穂の地に葬られた. 768年急死→急病説,自殺説,三輪山の神の祟り説など.
いずれは抄録が出るだろうというの(HPはこちら→)に詳しく書きすぎたかもしれない.
奈良の鏡神社はもちろん,佐賀県唐津市の鏡神社も訪れてみたいものである.
by Allegro-nontroppo
| 2014-06-29 19:15
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