高松塚・キトラ古墳考であげた高松塚古墳被葬者の候補の中に気になる皇子がいる.
弓削皇子の紹介でも既に書いたこと(参照記事はこちら→)であるが,もう一度取り上げたい. 「懐風藻」の「葛野王伝」には持統天皇の跡継ぎを決める会議について,以下のように記されている. 「高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣各私好を挟みて、衆議粉紜なり」
次の天皇という大事なことを高市皇子が亡くなる前は決めていなかったというのか.
他にも奇妙なことがある. 高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から「長屋親王」「長屋皇宮」「長屋皇子」と記した木簡が多数発見されている. さらに,「日本霊異記」で「長屋親王」と称されていること. つまり,長屋王は王ではなく親王であったということだろう. 律令制では天皇の子及び兄弟姉妹が親王となれる. しかし,長屋王の父である高市皇子は皇太子でもない,一皇子にすぎないはずである.
しかし,上記を見る限り,天皇位についたか,少なくとも立太子されていたのではないかと思われるのである.
高市皇子は,壬申の乱において,不破から全軍を指揮して戦っており,また乱後の処罰や論功行賞も行っている. この当時の天武天皇の他の皇子たちは幼く,天武天皇の皇子として働ける年齢にあったのは高市皇子のみであった. さらに「全軍の指揮」を任されるほどに,周囲から実務能力を評価されていたということも分かる. 天武・持統朝で実質的に最高責任者として政治を行っていたことからも伺える.
私は特に壬申の乱で天武天皇に味方した集団の中から高市皇子を次の天皇に押す者たちが続出したのではないかと思っている.
彼女は息子の草壁皇子の死後,孫の文武天皇を天皇にしたいと考えていた. しかし,当時の文武天皇は年若く,実績もない. 血筋の点を除けば,高市皇子の方が天皇にふさわしく,後押しする有力者たちも持っている. 高市皇子は邪魔である. 謀殺してしまおうと思ったのではないか. これは草壁皇子の対抗馬であった大津皇子の謀殺(大津皇子の謀反は持統天皇の謀略と言われている)という先例があるため,決して無茶な推測ではないはずだ.
藤原不比等は高市皇子の死後から出世しているようである. 逆を言えば,高市皇子が生きている間は出世できなかったと考えられ,高市皇子を邪魔に思う一人であったと推測されるからだ.
平安時代の律令「延喜式」諸陵によれば墓は大和国広瀬郡の「三立岡墓」とされており,一方で「万葉集」の柿本人麻呂の挽歌では百済の原に葬られたとある. この百済の原の場所ははっきりしていない. しかし,このように墓の所在地が錯綜するのは高市皇子が移葬されたからでないか. 移葬については推古天皇や早良親王などで実施されている. 早良親王(参考:)の例をとって考えるに,何か高市皇子の祟りめいたことが起きたのかもしれない. 持統天皇の崩御や文武天皇の病などが怪しいと思う. 高市皇子の祟りを鎮めるために一度,百済の原に埋葬された高市皇子を移葬することにした. 延喜式は平安時代の書物であるから,すでに情報が錯綜していたのであろう. 高市皇子を移葬にあたって参考にしたのは中国の墓である. 高市皇子が建設にかかわった藤原京は周礼(儒家が重視する経書で、十三経の一つ、『儀礼』『礼記』と共に三礼の一つである)によって建設されており,高市皇子自身,周礼に造詣が深かったと推測される. 一方で,当時の中国王朝,つまり武則天(則天武后)の武周朝は周礼への復古調の強い影響を受けた. 高松塚古墳壁画の人物群像との比較例としてよく挙げられるのは章懐太子,懿徳太子,永泰公主の陵墓である. ところで,彼らの死の原因は共通している. 則天武后に死を賜ったのだ. 日本国内では他には見られない古墳壁画の人物群像は中国と同様に皇后から女帝となった人物によって殺された皇子を弔うためではないのか. 中国文化に詳しい皇子のために中国風の墓を用意したとも思える.
しかし,決して高市皇子に天皇位を渡すわけにはいかなかった. よって,天皇を表す壁画を傷つけ,頭蓋骨を抜き取り,実際の位より小さい墳墓を築造したと考えられる.
次回はキトラ古墳の被葬者について考えたい.
by Allegro-nontroppo
| 2014-06-11 19:02
| 高松塚・キトラ古墳
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