古代ミステリー紀行 第2夜 ―皇子に転生した秋篠寺の高僧―を受講した. 今回も第1夜と同じく講師は多田一臣氏である. 第1夜の抄録がアップされたとのこと,興味のある方はリンク先をご覧頂きたい(抄録はこちら→). また,第1夜の感想を書いた本ブログの記事もリンクを張っておく(感想記事はこちら→)
秋篠寺の開基は善珠僧正と言われているが,これは近世の資料である「大和名所図会」が最も古い資料ということである. しかし,「扶桑略記」に関係の説話が記されているため,「大和名所図会」の記録は正しいと思われる.
この光仁天皇は聖武皇統が途絶えることで即位することとなった天皇で天武系から天智系に切り替わるというターニングポイントとなった天皇である. この即位の裏では藤原式家の百川の策謀があったといわれている. 光仁天皇の皇后は聖武天皇の息女であった井上内親王であり,皇太子は井上内親王を母にもつ他戸親王が立てられていた. しかし,井上内親王が光仁天皇を呪詛したということで廃皇后となり,次いで他戸親王も廃皇太子となる. この事件の裏でも百川が奇計を用いたとされている(「公卿補任」) これにより,光仁天皇の譲位を受けて即位したのが高野新笠(百済系)を母にもつ桓武天皇である. 皇太子には光仁天皇の意向で桓武天皇と同母弟の早良親王が立った. (早良親王は年少の頃出家していたので,還俗した) しかし,天武系皇統が継ぐべきという意見や反藤原氏勢力(氷川河継の乱)など皇位継承をめぐる混乱は続いていた. そんな中で,桓武天皇には皇后藤原乙牟漏との間に安殿親王(後の平城天皇)が授かっていた. また,百川も亡くなり,甥の藤原種継が政界の中心にあった. その藤原種継が造営中の長岡京視察中に暗殺され,犯人として大伴旅人と同竹良,そして大伴氏が摘発・連座となった. また,東北の多賀城に赴任し,事件の20日ほど前に薨去した大伴家持も連座したとされ,葬儀も許されず官位姓名をはく奪された. さらには大伴家持が東宮大夫を兼任していたことから早良親王も連座したとされ,乙訓寺に幽閉され,廃皇太子となり淡路へ配流となった. その途上,早良親王は一切の飲食を断ち,憤死した. 遺骸はそのまま淡路へ配流となった. 当時,餓死は最も切実な問題であったため,最も苦しく,悲惨な死に方とされた. (これは「ひだる神」(峠などで行き倒れた旅人の霊)や「今昔物語集 巻二十第七話」等にも表れている.) つまり,餓死することが,祟り神となり思いを遂げる一つの手段とされていた.
また,安殿親王の体調に異常が現れる(精神的な不調?). 卜占の結果,早良親王は怨霊となり,桓武天皇・安殿親王を祟っていることが判明する(井上内親王及び他戸親王なども祟る). よって,792年に謝罪の使者を淡路島の早良親王の墓に派遣し,800年には早良親王に崇道天皇の号を与え,井上内親王を皇后に追復させ,早良親王の墓を山陵とする詔を出した. 806年には大伴家持らも本位に復した.
また,善珠死亡時には安殿親王が善珠の絵姿を描き秋篠寺に安置している(「扶桑略記」延暦十六年). これは善珠が死んでも,秋篠寺で生きているかのように安殿親王を守り続けるようにという願いによるものと考えられる(直木孝次郎氏).
このような風聞が語りだされるような不気味な雰囲気が宮の内外に広がっていた(原田行造氏).
桓武天皇の三十五日忌の法要は非天武系の寺である秋篠寺と大安寺のみで行われた(平城京には天武皇統に縁の深い寺が多い). 秋篠寺の門前には早良親王以下の怨霊を祀る「八所御霊社」があり,また雷の石・雷の臍が保存されているという(雷神信仰と怨霊信仰は非常に縁が深い)
桓武天皇の即位のくだりは知らないわけではなかったが,そこから安殿親王の立太子までつなげて考えたことがなかったので本当にためになった. 後に安殿親王が即位し,平城天皇となり,皇太子時代の鬱屈がもとで藤原薬子の変が起きていくのかと思うと,歴史というものはつながっているのだと思わずにはいられない. 断片的に考えては見過ごすことが多いということは肝に命じておくべきであろう.
以前から調べてみたいと思っていたので,このシリーズの中で一番,興味があるが,果たして参加できるだろうか. とりあえず,応募は忘れずにしようと思うのである.
by Allegro-nontroppo
| 2014-06-05 19:18
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