講師は住吉善慎氏である. 写真はキトラ古墳である. 講義では高松塚・キトラ古墳の被葬者及び築造時期という謎について住吉氏が挑んだ過程とその結果を解説された. その方法とは ・天智天皇から長屋王の子まで,約60人をピックアップする ・古墳壁画のもつ意味合いを探る →その結果,合理的と判断する人物・事績を絞り込むという方法で比定されたという. 住吉氏は高松塚古墳壁画の各群像図について,弔賻をイメージしたものと考えられた. つまり,この壁画は罪なくして悲劇的な死をとげた人物への鎮魂ということである. そして,この悲劇とは「長屋王の変」ではないかという. 長屋王の変について,簡単に記しておこう. 西暦729年,「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告があり,それをうけて藤原不比等の息子である宇合らの率いる六衛府を含む軍勢が長屋王の邸宅を包囲,また舎人親王など高官らによる糾問の結果,長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され長屋王本人も自尽した事件である. この事件が起こった背景としては,第45代聖武天皇がその生母である藤原宮子に「大夫人」の称号を与えようとしたことに始まる. 一度,勅は出したものの,これは公式令に存在しない称号であることから天皇に判断を仰ぎたいと長屋王が訴えでたため勅を撤回するに至った. 問題なのはこの藤原宮子が藤原不比等の娘で宇合ら藤原四兄弟の姉または妹であったことだろう. この勅については,藤原四兄弟は権力の拡大という思惑あってのことであるし,長屋王としてはこれ以上藤原氏の勢いが増せば,天皇家の勢力が弱まることを恐れて阻止したかったと思われる. この結果,長屋王の排除する必要を感じた藤原四兄弟によって「長屋王の変」が引き起こされることになるのである. この藤原四兄弟が黒幕であるという証拠として ・長屋王を誣告した中臣宮処東人が惨殺されている. ・続日本紀に誣告と記されている. ・長屋王変の後に藤原四兄弟の妹である光明子が皇后として立后している.(当時は皇族のみしか皇后にはなれない) ・藤原四兄弟及び舎人親王など長屋王の変に関わった人物が天然痘で次々に亡くなった際に長屋王の祟りと言われた. などである. この天然痘の流行で当時の高官たちも次々に亡くなってしまい,出仕できる公卿はわずか2人のみになってしまった. これが橘三千代の息子である橘諸兄と長屋王の弟である鈴鹿王である. 当然のことながら,彼らを中心にその後の政治を回していくことになるのである. この事実から,住吉氏は高松塚・キトラ古墳の築墓者は鈴鹿王と比定された. さらに当時の時代背景として第10回遣唐使の平群広成が帰国してきたことも比定のポイントとなるであろうということである. 第10回遣唐使の際,唐にいた阿倍仲麻呂は他の遣唐使と比べて平群広成の面倒をよくみている. これは阿倍仲麻呂の弟が長屋王と親交があったゆえではないかと推察されるというのだ. また,現在,宮内庁が治定している長屋王の墓は平群氏の領地であった平群町にあることもその証左であろう. 以上の事実より,住谷氏の見解は以下のとおりである. ・築墓者は鈴鹿王である. ・高松塚古墳の被葬者は鈴鹿王の兄の長屋王で,キトラ古墳の被葬者は長屋王・鈴鹿王兄弟の父,高市皇子である. ・鈴鹿王は長屋王の変で讒言により自刃した長屋王の名誉回復及びその魂の鎮魂と安寧を求めた. ・高市皇子の死についても陰謀の影がちらつくことから,その魂の鎮魂と安寧の必要性を感じていた. ・藤原四兄弟など長屋王の変の関係者が死亡したところで橘諸兄らの協力も得て,鈴鹿王(生駒山)と高市皇子(三立岡墓)より高松塚古墳とキトラ古墳へ移送した. ・高松塚・キトラ古墳壁画や副葬品は第10回遣唐使の平群広成の協力を得た. ・高松塚・キトラ古墳は同時期に築造された. ということである. 非常に面白いお話であった. 特に高松塚古墳壁画の群像図を弔賻の場面としたところなどは目から鱗が落ちるような思いであった. しかし,住吉氏の御意見にはいくつか難点があると思う. 1つ目は副葬品に関する問題である. 現在,高松塚・キトラ古墳の副葬品から高松塚古墳の方が高位の被葬者でキトラ古墳については高松塚より少し低い被葬者が埋葬されていると言われている. ところが住吉氏の説を採用するとその地位は逆転してしまうのだ. つまり,高市皇子は天皇の息子であり,太政大臣まで昇りつめた人であるが,長屋王は天皇の孫であり,その地位は正二位左大臣であるから高市皇子より地位は劣る. これについてどう思われるか質問をしてみたところ,鈴鹿王は高市皇子より長屋王を手厚く葬りたかったので高松塚古墳のほうが豪華になったのではないかとおっしゃっていた. 住谷氏には申し訳ないがこのご意見は筋が通らないと思う. 高市皇子に比べて長屋王の方が悲劇的な最期を迎えたことは間違いないが,だからといって階級を超えてまで長屋王の副葬品を父である高市皇子より素晴らしいものにしようと思うだろうか. また,高松塚古墳の副葬品である「海獣葡萄鏡」は遣唐使が唐より購入し,埋葬時に棺に入れたとしてもよい. しかし,両古墳から出土した銀装大刀については生前,被葬者が使用していたものではないのか? 大刀を新たに打ちなおして副葬品とするというのは奇妙な話に思える. 銀装大刀は被葬者の地位の上下が推測されているので重要な問題だと考えられる. 2つ目は築造時期の問題である. さらに,第10回遣唐使の関与も推察されているから,彼らが帰国した西暦739年以降に完成したと考えなければ計算に合わない. 築造時期が739年以降で本当に正しいのか. 高松塚・キトラ古墳は現在の明日香村に位置している. これは藤原京を突っ切る朱雀大路のその南の延長線上であり,この線上には他の皇族たちの墓もあることから聖なるラインという説もあるほどだ. よって,高松塚・キトラ古墳及び被葬者は藤原京と関係性が深いと考えられるわけだが翻って,高市皇子と長屋王はどうだろう. 高市皇子は藤原京遷都に功労があったと記載されているし,藤原京で亡くなったと考えられるから,関係性が深いとはいえる. しかし,長屋王は藤原京で政治に加わっていた時期はもちろんあるものの,活躍の中心は平城京であり,亡くなった場所も平城京である. 都も既に平城京に遷都し30年近く経っているのである. 今更,過去の都である藤原京近くに近親者の墓を建てようと思うだろうか. また,先にも書いた藤原京の南の皇族たちの墓,聖なるラインが藤原京を守る名目で建設されたとしたら,さらに今更,そこに墓を建設する意図が分からないのである. 3つ目は埋葬されていた被葬者の問題である. 高松塚・キトラ古墳の被葬者は棺に入れられ,埋葬されているから火葬はされていないと考えられる. 長屋王は西暦729年に亡くなったとされている. 天皇の中で初めて火葬されたのは持統天皇である. 西暦729年までに持統天皇に続き,文武天皇と元明天皇が亡くなっているのだが,彼らも火葬されているのである. これは既に天皇の火葬が習慣化されていたと考えられるが,罪人となっていたといえ火葬されないということがあるだろうか. ちなみに高市皇子は持統天皇より早くに亡くなっているので(西暦696年)火葬されていないのは当然であろう. また,高松塚古墳の被葬者は状態がよく,人骨も大部分残っているが,斬首などされた跡がないのに頭蓋骨がないというのである. この頭蓋骨は一体どこに行ってしまったのだろう. これらの難点に解決がつかない限り,長屋王が高松塚古墳の被葬者である可能性は低いのではないかと考える. とはいえ,面白い角度で検証されており,非常な有意義な時間であった. ※2014年5月21日,一部,誤字を訂正した.
by Allegro-nontroppo
| 2014-05-18 19:29
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